実は城づくりの名人だった光秀 しかし、なぜ山奥に大規模な城郭を築いたのか…

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 明智光秀が築城した多くの城のなかで、奇跡的に山奥に残る城跡がある。それが、京都府京都市右京区京北周山町にある周山城である。光秀が築城し亡き後、1584年(天正12年)に城として機能しなくなり、江戸時代以降まるで時間がフリーズしたように残る。光秀の優れた築城術を、そのまま今に伝えている。

 周山城の築城時期は、1580年(天正8年)ごろといわれ、織田家の本願寺攻めが終わり、光秀が丹波を正式に拝領した年であり、本能寺の変の2年前。周山城は、標高480メートル比高220メートルの城山一帯に位置し、総石垣に近い大規模な山城。

周山城は、光秀の縄張りをほぼそのまま伝えている

 勿論、建物部分は残らないものの、土台となる石垣は今でも残っている。光秀の城として原型をとどめる遺構が少ない中で、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は「周山城は、光秀の縄張りをほぼそのまま伝えている」と、新刊『ぶらり明智光秀の城&史跡めぐり』(マコト出版刊 Amazonにて発売中)掲載の特別執筆コラムで、光秀の城づくりについて詳しく語られている。周山城中心部は、本丸から放射状に四方の曲輪へ尾根沿いに続いている。枯葉や腐葉土の隙間から石階段が見られる箇所もある。

 また、東の曲輪と本丸を結ぶ尾根は、緩やかな坂で両脇には石塁が積まれており、さながら万里の長城を彷彿とさせる。周山城は、光秀が築城の名手だったことを伝える貴重な遺構にもかかわらず、周山城の本格的な調査は近年始まったばかりで、今後の調査結果に注目が集まっている。

 国内で光秀史料が少ないなか、外国人であるフロイスだからこそ恣意的でなく、光秀を「築城の名手」と、能力を客観的に分析できたのかもしれない。しかし、周山城は福井県高浜町と京御所を結んだ西の鯖街道という街道そばにあるとはいえ、なぜ山奥にこれほどの大規模な城郭を築いたのかは、「本能寺の変」同様に、いまだに謎とされている。

 明智光秀は、他にも多くの城を築城した。転用石を用いて急ピッチで建てられた福知山城、京にこだわり口丹波に作られた亀山城、細川藤孝が築いた勝龍寺城から出土した瓦は光秀の職人と同一で親交の深さを物語る。八上城攻めの際には、八上城周囲に付け城を築き、最後に八上城と赤井直正の黒井城の間に、金山城を築いた。このことから光秀が赤井直正を信用していなかったことがわかる。明智光秀の城を見ていくことで、その時々の光秀の状況や心情を察することができる。「本能寺の変」の真相を、史料だけでなく光秀の城跡から推理する歴史ファンも増えてきている。

 また、前述の同書で、小和田哲男教授は光秀が鉄砲の名手でもあったことを「鉄砲と光秀」という特別コラムで執筆している。そこには長篠・設楽原の戦いにも光秀が実は関わっていたことも語られている。どうやら明智光秀の能力の高さや多才な面を語るには、大河ドラマが1年では足りなそうな人物である。

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