実は城づくりの名人だった光秀 しかし、なぜ山奥に大規模な城郭を築いたのか…

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 NHK大河「麒麟がくる」では、明智光秀のキャラクターアイテムとして鉄砲が多く出てきている。光秀が鉄砲を得意としていたことは大河以前あまり知られていなかった。

造詣が深く優れた建築手腕の持ち主

 明智光秀というと「本能寺の変」、織田信長への謀反人として焦点が当たりがち。その歴史的大クーデターの陰で、明智光秀が実は築城の名手であったことも、意外と知られていない。戦国時代、ポルトガルから日本へ来ていた宣教師のルイス・フロイスは、光秀を「築城について造詣が深く優れた建築手腕の持ち主」と記録している。

 1571年(元亀2年)9月、比叡山焼討ち。焼討ち前、光秀は比叡山近く琵琶湖西側の志賀郡の土豪たちを必死に味方につける工作を行った。彼らを懐柔せねばならないほど、山門(比叡山延暦寺)は、強敵だったようだ。山門の寺院建築は当時としては最も強固で防御力を持ち、火や火縄銃をはじいた。戦いで最前線に立った光秀はそれに手を焼き、戦後には逆に倣ったフシが明智光秀の城づくりには現れている。

 焼討ち後、光秀は志賀郡の土地を信長より褒美として与えられた。そして琵琶湖畔に坂本城を築き、城は当時としては珍しい天守と小天守を兼ね揃えたといわれる。1572年(元亀3年)12月には吉田兼見が建築途中の天守を視察している。おそらく瓦葺きの屋根を持つ天守だったであろう。安土城も出来ていない頃にである。安土城の完成は1579年(天正7年)なので、それより7年も前に築城しており、まさに光秀は織豊期城郭づくりの先端をいっていた。

 また、比叡山延暦寺には土木営繕的な御用を勤めていた技術集団が存在していた。それが、石垣を作る穴太衆(あのうしゅう)である。穴太衆の石垣は、火縄銃の弾をはじく防御機能もある。そして高さを持つ石垣を民衆に見せることで、統治の上で権威や力を感じさせる。穴太衆が作る穴太積みの特色は、加工しない自然のままの石面を巧みに用いて、石積みの面を構成し自然の美しさを保つ。光秀は、比叡山が抱えていた建築スペシャリストをそのまま、自分の築城の際に活かすことになってくる。穴太衆を直接使った記録は残らないものの、光秀が築城した城石垣の野面積みを見れば窺い知れる。

 現在、坂本城の痕跡はほとんど無く、琵琶湖水中にわずかな石垣跡が残るのみである。

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