探偵は本当に「バーにいた」 開業した元刑事の誇り、でも「映画みたいには...」

樺山 聡 樺山 聡

 では、なぜ「目川」や「相沢京子」のような「顔」をさらす探偵が現れたのか。

 「それを知るには探偵の歴史に目を向ける必要があります」。関西大の永井良和教授(社会学)は語る。

 永井教授は、著書「探偵の社会史(1) 尾行者たちの街角」(世織書房)で日本における探偵の歩みを跡づけた。

 日本で最初の探偵を特定することは難しいという。ただ、1889(明治22)年の新聞記事に「秘密を探知」する探偵社についての記述があるそうだ。

 さらに「明治事物起原」には明治25年に大阪で創業した商業興信所が最初と記されている。同書には、この頃、岩井三郎という人物が「秘密探偵」を始めたとの記載もある。岩井は東京と大阪で開業した。

 つまり、日本の探偵は明治中頃に姿を現した。

 「近代都市が探偵を生んだのです」。急速な都市化は地方から人々を吸い上げた。代々の付き合いが続く密な人間関係の村落共同体とは違い、都会では互いに素性を知らない同士が寄せ集まり、出会う。隣人といえども顔すら知らなくて当たり前。「そんな都市住民に、時として他人を知る必要が生じた。その手段として探偵という存在が姿を現してきたのではないか」

 匿名の人々が行き交う群衆の中でこそ、尾行も可能になる。明智小五郎探偵が初めて登場する江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」は大正13年に発表された。「探偵小説が広く受け入れられるには、近代の都市文化が成立する必要があった」

 ちなみに、永井教授によると、明治・大正期は「探偵」という言葉は警察の活動を指し示していた。それが、指紋など科学的な手法が導入されるに従い、「捜査」へと用語が変わった。「私立探偵」という言葉があるのも、こうした歴史があるからに違いない。

 では、京都で最初の「私立探偵」はいつ頃に誕生したのだろう。

 明治中頃から大正にかけての「京都日出新聞」に、それらしい記事は見当たらなかったが、明治以降の古い電話帳を繰ると、手掛かりが見つかった。

 1933(昭和8)年の「京都職業別電話名簿」に「探偵業(興信業)」の項目が初登場する。信用調査会社とみられる組織名が並ぶ中にただ一つ、個人名があった。住所は「錦小路、室町東」。そして「探偵社」と書かれている。

 13(大正2)年の電話帳にその名前はなかった。ということは、京都では東京・大阪よりも少し遅れた大正後期から昭和8年の間に個人の探偵が誕生したとみて間違いなさそうだ。

 この頃の京都は、まさしく大都市へと姿を変えようとしている時期だった。

 京都市の人口の推移を見ると、昭和6年に前年の76万人から97万人へと急増し、その翌年に初めて100万人を突破した。当時、伏見市など周辺の市町村を編入し、「大京都」へと踏み出した時期だった。

 単に市域が拡大したから人口が増えたのではない。

 拡大後の市域で換算し直して大正9年と昭和10年の人口を比較すると約1・5倍に急増している。これは市外からの移住による増加とみられる。「人口都市集中の近代的傾向を如実に物語ってゐる」と当時の国勢調査は分析している。

 京都が都市へと突き進む中で誕生した「京都初」の探偵は、どんな人物だったのだろうか。住所の近所で聞いて回ったが、なんせ100年近い昔のこと。知る人は見つからなかった。

 戦後。日本が豊かになると探偵業は乱立していく。

 「個人情報を扱う探偵は信用が何より大切。競争が激しくなる中で、『顔』の見える親しみやすさが前面に出されるようになった」。永井教授は指摘する。

 1990年に発行された京都のタウンページを開くと、探偵の項には全国チェーンのものも含めて、ざっと100社以上の名前が並ぶ。広告も百花繚乱(りょうらん)。中には、社長と俳優の藤田まことさんの対談や、ミヤコ蝶々さんが「女の坂道はけわしゅうございまして」などのセリフとともに大きな写真で宣伝している。

 その中でも異彩を放つのが「目川探偵」だ。探偵が「本人」を標ぼうして表に出た例は全国でも珍しいという。実像を探ると、強烈過ぎる個性が浮かんだ。

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