日が暮れて電飾がともると、田園や工場が並ぶ一帯に宮殿のような建物がいくつも浮かんだ。ここは名神高速道路の京都南インターチェンジ(IC)近くにあるラブホテル街。郊外にあるラブホ街としては「関西最大」規模という。なぜ京都の地に「性愛の空間」の群れがあるのか。京都大で地理学を学ぶ学生で、最近ラブホに関する論文が電子書籍として発表されて話題の重永瞬さん(23)が読み解く。
「社会のしがらみから逃れて自由な時間を謳歌する空間である一方で、風紀を乱すと忌避される。だからこそ限られた場所に集まり、ラブホ街を形成します」。重永さんは語る。「ラブホ街は関西にいくつかありますが、京都南のように軒数も多く、かなり密集している例は全国でも最大級と言えます」
重永さんが昨年6月時点でラブホテルのサイトで確認したところ、京都南IC一帯には27軒のラブホが営業している。数としては33軒ある大阪・難波が関西ではダントツだが、これは23軒ある大阪・梅田と同様、私鉄ターミナル駅周辺に位置する「都市型」に属する。京都南のような市街地から離れた「郊外型」としては、大阪国際空港周辺が13軒、東大阪IC付近が11軒、豊中IC付近が7軒で、京都南の軒数が突出している。
では、京都南IC近くになぜ「関西最大」のラブホ街が誕生したのだろうか。
「京都という土地の特性と大きな関係があると思います」と重永さんはみる。
京都市生まれの重永さんは、京大文学部で地理学を学ぶ5年生。「語学の単位が取れなくて留年してしまいました」と笑う。
20歳の時、「京都・観光文化検定試験(京都検定)」1級に最年少で合格し、京都大地理学研究会の会長も務めた。研究会が年1回発行する会誌「鯨瞰図」(げいかんず)は充実した内容で、学園祭で販売すると、すぐ完売の人気を誇る。重永さんの主たる研究テーマは京都の近代史。門前町の成り立ちを調べる中で、大阪・天王寺地区の生國魂神社周辺に並ぶラブホ街に関心を抱いた。
神社の門前に古代ギリシャ風の柱が立ち、「LOVE」と大きな文字が光る。聖と性が隣り合う奇妙な風景がなぜ生まれたのか。戦後の住宅地図などを調べ、門前茶屋が連れ込み旅館に変化し、ラブホにつながった系譜を論文にまとめ、2018年に会誌に掲載したところ、編集者の目に止まり、電子書籍として出版され、話題を集めた。
「京都南のラブホ街については、まだ詳しい分析はできていません」。重永さんはそう断った上で、こう指摘する。「市内中心部の規制が厳しい京都ではラブホが外側にはじき出された」
重永さんによるとラブホのような風俗施設は原則として、都市計画法の商業地域と準工業地域にしか建てられない。元々、制約が大きい上に、京都は中心部の高さ規制などが厳しく、郊外で交通の便が良い1カ所に集中したという訳だ。「高度経済成長期に車で京都を訪れる観光客を狙って林立したとも考えられる」
京都南のラブホ街ができあがっていく過程については先行研究がある。それによると、1965年に名神高速道路が全線開通し、京都南では69年に最初の1軒が誕生。そこから3年ほどで5軒に増えた。高度経済成長期。70年の大阪万博をきっかけにした宿泊施設の需要の高まりも影響したようだ。さらに80年代になると周辺の道路整備も進み、規制を強化する「新風営法」施行前の駆け込みもあって年に数軒単位で急増。一大「ラブホ街」に発展を遂げていったという。
「大阪は都市の中心部を複数の高速道路が走り、ICも多いためラブホが分散したが、京都はICが周辺部にできたため、大きな土地が確保しやすい立地しやすい京都南に集中した」
しかし、最近は京都南のラブホ街にも陰りが差す。先行研究によると2007年には34軒あったというから、この10年余りで7軒減ったことになる。
「全国には5000軒以上ありますが、若者の自動車離れも影響してか、減少傾向にあります。一方で、最近はラブホ色を薄めて女性同士の観光客向けにサービスを強化するなど、大きく変化している」
時代を映す鏡として変化を続けるラブホ。「性愛空間を通して都市史を見つめる面白さをこれからも伝えたい」と重永さんは言う。