1000年以上の時を経て、国防の最前線として2度も要塞が築かれた場所が、国境の島・対馬にあります。対馬の中央部にある「城山(じょうやま)」です。飛鳥時代に大陸からの侵略に備える古代山城「金田城(かねだじょう)」が築かれ、その後明治期にもロシアとの戦争に備えた砲台が築かれました。2019年秋のテレビ番組では、一度は訪れてみたい日本「最強の城」にも選ばれるなど、古代と近代の軍事的な遺構が併存する貴重な史跡として注目を集めています。
城山は、南北に分かれた対馬の上島・下島にはさまれた浅茅湾(あそうわん)の南岸にある山で、 標高は276メートル。現在は山頂まで往復5キロメートルほどのトレッキングコースが整備され、いくつもの絶景ポイントがあるといいます。対馬の歴史と自然を凝縮して体験できるスポットと聞き、対馬観光物産協会で観光ガイドをつとめる上原由美子さんの案内で登ってみました。
コースは明治期に要塞を整備する際に、旧日本軍が運搬用の馬車が通れるように作った「軍道」を活用しています。
「この道は岩山を削り取りながら切り開かれています。岩肌に、細長い穴の跡のようなものが何カ所もあるのが分かりますか…?」と上原さん。実はこれ、岩を破砕するのにダイナマイトを仕掛けた跡なのだそうです。
えーっ…ちょっと迂回すればこの岩は爆破しなくても良かったんじゃないの?というところもあって、何が何でもここに道路を作ろうとした「強い執念」のようなものが伝わってきます。浅茅湾が見えてくると、まもなく飛鳥時代の遺構「金田城跡」です。
防人がここで国を守っていたなんて…飛鳥時代の古代山城「金田城」
昔は「かなたのき」とも呼ばれていた金田城。築かれたのは、1350年ほど前の飛鳥時代。天智天皇(天皇になる前は中大兄皇子)が「大化の改新」という政治改革を行っていたころといいます。当時、朝鮮半島にあった百済という国が、中国大陸の国などから攻め込まれており、日本は支援のため遠征をしますが大敗してしまいます(663年・白村江(はくそんこう/はくすきのえ)の戦いといいます)。
そのため、大陸や朝鮮半島から日本本土が侵略される可能性が出てきたため、防衛を目的として、西日本各地に山城が築かれることになりました。その最前線に作られたのが、対馬の金田城といいます。
現在残る代表的な遺構が「石塁」です。 「城山をぐるりと取り囲むかたちで、 最も高いところで6.7メートルの石垣が、2.2キロメートルに渡って続いています」(上原さん)。当時城への出入りは海から行っていたので、出入り口は海沿いに作られていたそう。湾に向かって石垣がざーっと続いている様子は壮観です。
ちなみに当時、ここで実際に国境警備の任務にあたっていたのが「防人(さきもり)」という人たちです。 おもに東国(現在の関東地方)の人たちが連れてこられて、自給自足の生活をしながら警備にあたったそうですが、突然の徴用は本人にも家族にも大変な負担だったそう。
石塁の脇には、防人たちが詰めていたと思われる遺跡も。ああ…どのような思いで、この地で過ごしていたのでしょうね。「防人の人たちが、どのようにここで警備をしていたのかなど、具体的なことはよく分かっていないんです。まさに、想像が膨らむ歴史ロマンの世界ですよね」と上原さんは話します。 確か、万葉集に収められている「防人歌」は家族との別離や郷愁を率直にうたいあげていたはず。風景のコントラストが少し強くなった気がします。
コースとなっている軍道は山の中腹をジグザグに通るため、石塁をいくたびか縦断します。また軍道は軍道でとても生真面目に作られていて…「道路の縁とか、別にこんなところまだ頑張らなくてもいいのに、というところまでピシッと直角になっていたりします」(上原さん)。
また、島の自然を見られるのもトレッキングの面白さのひとつ。対馬では現在シカやイノシシの食害が深刻になっているそう。コース沿いでも、シカに荒らされた木や、イノシシが地面を掘り起こした跡を見ました。