「幸せをプレゼントするのが放送」84歳・浜村淳の心意気

長寿ラジオ番組「ありがとう浜村淳です」

京都新聞社 京都新聞社
「来る日も、来る日も、毎日放送」に通い、マイクの前で語り続けてきた浜村淳さん。「毎朝早く、髪を整える時間もないので帽子姿で失礼します」と笑顔をみせる=大阪市北区・MBSラジオのスタジオ
「来る日も、来る日も、毎日放送」に通い、マイクの前で語り続けてきた浜村淳さん。「毎朝早く、髪を整える時間もないので帽子姿で失礼します」と笑顔をみせる=大阪市北区・MBSラジオのスタジオ

 さて皆さん、聞いてください―。関西を代表する朝のラジオ番組「ありがとう浜村淳です」(MBSラジオ)が8日の放送で45周年を迎えました。パーソナリティー浜村淳さん(84)は、京都市出身。浜村節と親しまれる名調子の原点は、古里・京都にありました。大阪・梅田の放送局から、昭和、平成、令和へと続く歩みをお届けします。

 ■1935(昭和10)年、京都市北区鷹峯(たかがみね)生まれ。鷹峯小、旭丘(あさひがおか)中を経て、山城高に進んだ。

 鷹峯源光庵(げんこうあん)に突き当たる坂の途中に家がありました。お隣はテニスの伊達公(きみ)子さんの家。公ちゃんは小さい頃からラケットを抱えてましたから、よく知ってました。父親に叱られても涙一つ見せない芯の強い子でした。山城高では一つ上に阪神タイガースの吉田義男さんがいました。よっさん、今も元気で解説でようしゃべってます。山城新伍さんも後輩にいました。僕も含め、しゃべり好きが山城高には多いんですかね。

 ■同志社大文学部に進学。放送部に入り、円山公園音楽堂で舞台に駆り出され、初司会を務めた。

 放送部では最初、裏方やったんです。関西学生野球の同立戦の前夜祭で各大学のバンドが演奏する催しが円山音楽堂であって、あの頃は母校愛が強くて、他大学の司会を「引っ込めー」言うて、やじり倒すんです。恐ろしい雰囲気で、みな嫌がって、ついに僕が引っ張り出されたんです。歌い上げ調で「さらば、赤いバラの酒飲み干し、今宵も歌わん! ラ・クンパルシータ」って一気に言うと、相手もやじを言う隙がない。アナウンスを志す学生でなく、素人だから好き勝手にできたんだと思います。司会のこつをこの頃つかんだように思いますね。

 ■四条河原町にあったジャズ喫茶「ベラミ」などでも司会を担うようになる。

 狭い京都ですから口コミでいろんな司会の依頼を頂くようになりました。「ベラミ」というと三条大橋東にあったナイトクラブが有名ですが、四条河原町の方のジャズ喫茶では、ハナ肇とクレージーキャッツ、和田弘とマヒナスターズといった一流どころが東京から来ていました。淡谷のり子さんが来られた時は「別れのブルース」の逸話を曲の前に語って、淡谷さんに褒めてもらい、自信になりました。

 ■大学卒業後、いったん就職した大阪・船場の靴下メーカーを辞め、しゃべりを本業にしようと決めた。

 父からは「野垂れ死に覚悟やな」と言われました。芸能プロダクション「ナベプロ」の社長に「ベラミ」で誘われ、昭和33年から7年ほど東京に行きました。同じナベプロの「ザ・ピーナッツ」たちと同じ家に住まわせてもらいながら、音楽番組の司会もしました。昭和39年の東京五輪ではマラソンの録画に実況を付ける仕事もして「円谷(つぶらや)、頑張れ」って繰り返しました。

 ■30代で関西に戻り、深夜ラジオ「ヒットでヒット バチョンといこう!」で人気を集める。

 当時はテンポの速い“兄貴しゃべり”がはやっていましたが、僕はゆっくり分かりやすくと心掛けました。「くどい」「くさい」と言われようと、それが浜村節です。大切なのは、柔らかさです。毒舌も京都人らしく、やんわりとね。

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