過去のいじめの告白をめぐり、東京オリンピックの開会式で作曲を担当していたミュージシャン・小山田圭吾氏が辞任したことが議論を呼んでいます。
報道によると、小山田氏は私立の小中高一貫校に在学していた際、クラスメイトに対し、いじめを行いその内容を音楽雑誌のインタビューで赤裸々に語っていました。そのことがネットで明らかになり、「許せない」「五輪・パラリンピックの音楽担当にふさわしくない」といった声が多数あがっていました。
一方で、加熱する小山田氏への批判に対して、「清廉潔白の人はいるのか」「過去のこと」「ネットで叩くことは、正義を振りかざしている」という意見も見かけます。それらは一見“正しい意見”のようには聞こえますが、本当にそうでしょうか?
人は誰しも間違いをするものだけど…
誰しも人を傷付けたことはあるでしょう。
「人を批判する前に、自分が誰も傷付けることなく生きていたのか、振り返ってみろ」と言われたら、確かに返す言葉がありません。
「人は間違いをすることがある」という言葉は“正しさの塊”ですが、間違いをしたという事実の程度問題によると私は思います。
学校で起こるいじめは、たとえば人間関係で起きるもの、コミュニケーションが足りないことによる勘違いといったこともあり、よく言われるように「いじめ」と「いじり」の境界線は微妙なものです。
ここからここまでは「おふざけ」で、そこから先は「いじめである」という明確な基準がないのが難しいところです。知らぬ間に相手を傷付けた、いじめの加害者側になってしまったというのは、確かによくあることです。
しかし、一方で「さすがにそれはひどすぎる、異常だ」と思うようなレベルのいじめも存在します。誰がどう見てもおかしいと思う、犯罪レベルのいじめは、はっきりと区別すべきです。
小山田氏が行ったいじめの内容は、見過ごせないほどにひどく、インタビュー記事からはいじめを悔いているわけではなく、自慢したような雰囲気も否めません。
先日も、北海道・旭川の女子中学生が 自慰行為を強要され、わいせつ画像を拡散されるという壮絶ないじめ事件が起こったばかりです。
過去のことをわざわざ蒸し返して…との声もあるけれど
「過去が蒸し返された」という表現がありますが、小山田氏のインタビューが掲載されていた雑誌が特定の人が読む音楽雑誌であったこと、一部の読者以外には知られなかったというだけのことです。
もしあの時代に、テレビがこの雑誌のインタビューを取り上げ「こういう発言はどうなのか」と発信していたら、その時でも大きな批判を浴びたはずです。
匿名掲示板やネット上では、たびたび話題になっていました。しかし、これも匿名掲示板を見ている一部の人だけが知る内容で、今回のように多くの人が知るような公のものではありませんでした。今回の問題は、オリンピックに関係していたことによってスポットを浴び、結果として彼は弾劾されました。
いじめは、なかなかなくなりません。それでも、私たちはいじめ問題に対して関心を持ち、それが足りていないとしても、学校でも社会でも、いじめ問題に対処しようとしているところです。
そんな中で、今回の小山田氏の問題を、「過去の過ちは許せれないのか」「罪に寛容に」という言葉ですり替えてしまってはいけません。
誰しも過ちはあるし、犯罪者であっても確かに罪を償う道は残されています。もし小山田氏自身が過去について後悔し、問題だったと感じていたなら、開会式の楽曲製作担当に選ばれた時点で、自らこの件について言うべきだったと思います。
今回の問題はオリンピックだけでなく、彼が関わる教育番組、Eテレ「デザインあ」と「JAPANGLE」の放送にも影響を与えているようで、楽曲が良かっただけに大変残念です。ただこれはやむをえないことです。
今まさに全国の学校で同じようないじめ行為をしている子どもたちに、「いじめはやってはいけないことだ」と示す大人の責任でもあると思います。