タレントや著名人による「昔、いじめられた経験がある。その時に見返してやると思ったからこそ今がある」といった発言や記事を見ることがあります。先日、ある人から「いじめが原因で見返してやろうと思って成功した人もいる。いじめは短期的にはダメだけど、長期的にみたら、いじめられたことをきっかけにして力をつけることもあるんだから悪いことばかりでもない」と言われました。
本当にそうでしょうか?
確かにタレントや著名人が学生時代にいじめられていたという経験談を見て、「この人もいじめられた経験があるんだ」と驚くと同時にそれを励ましとして受け止めることもあるでしょう。
しかし、この発言から「いじめはしたかない。これをバネにがんばるべきだ」と結びつけることはまったく別の話です。
いじめを受けた過去をパワーに変えた人の言葉や体験談が誰かの励みになるのも事実ですが、いじめが人の人生をすべて破壊することもあるという事実も、同時に語られるべきだと思っています。
あいまいな〝いじめの定義〟
ちょっとした「からかい」がイジメの発端となりますが、「いじり」と「いじめ」の境界線はあいまいです。
学校でおきるすべてのトラブルや人間関係の問題をすべて否定するつもりはありませんし、悲観的にもとらえていません。
「こういうことを言うと嫌われるんだな」「もっと言葉にして伝えていかなくちゃダメなんだな」と、問題にぶつかるたびに子どもはコミュニケーション能力を育み、課題解決の力を得ていきます。
人と関わって生きていく力を、いろいろな経験から学ぶことはとても大切です。時には理不尽なことや納得いかないこともあり、世の中を知ることも大切だと思っています。
嫌いな人がいても、うまく距離をとる方法、どう対応すべきかは社会生活で学んでいくことです。
しかし、それは「いじめ」で経験することではありません。誰もが通過していくような、日常の中にある「思うとおりにはいかないこと」や「仲間とのケンカと仲直り」で少しずつ積み重ねていくものです。
北海道旭川の壮絶ないじめ事件
北海道の旭川であった、壮絶ないじめについては既にご存知の方も多いでしょう。中学生の女の子が恐喝されるだけでなく、自慰行為を写真にとられて拡散されるという、本当に不愉快で不快な事件です。
あいまいないじめの定義の中になんとなく包括されてしまっている度を超えた〝いじめ〟の真実です。
先日、総合格闘家の朝倉未来さんがYouTubeで、「いじめられてる人にも原因がある」と言ってました。しかし、今、学校で起こってるいじめは、相手は誰でもよく、理由もとってつけたようものがあります。人をイジメる理由は、いくらでも作ることができるというわけです。
度を超えたいじめが実際にあることを考えると、私たちは安易に「いじめを通して人は強くなれるのだ」と断言してはいけません。
もし自分の子どもがいじめを受けていたら「将来のためになる、耐えろ」と言い続けられるでしょうか。恐喝をされ、屈辱的なことを繰り返し要求されるわが子に「もっとがんばれ」と言えるでしょうか。
うまくいかなかった例は、表に出てこない
生存者バイアスという言葉があります。
生存者バイアスとは、生き残った人々の裏には成功しなかった、うまくいかなかった事例が山ほどある。生き残っていない人の声は拾い上げられない、表に出てこないということです。
生存者バイアス自体は、意味が複雑なので、ここでは上記のようにとらえ説明します。
要するに、今は活躍している人の「いじめがあったから、今の自分がある」体験談によって、「いじめのせいで、今がない」その他大勢の意見が見えづらくなってしまっているということです。
いじめられた人の体験を聞くことは、今、いじめを受けている人にとって、良い意味で、「そうか、自分だけではないんだ」と思い、勇気をだして誰かに相談できる一歩になるかもしれません。誰かの助けになり得るかもしれません。そう考えると、タレントや著名人がいじめの過去の告白することを否定するつもりはありません。
しかし、「だから、いじめは人を強くするんだ、いじめは悪いことではない」という捉え方をしたり、「やっぱり、学生時代はいじめってあるよね」「いじめがあるのは、仕方がないことだ」と結論づけてしまうのはおかしいことです。
人と人とが関わる中で、ケンカをしたり多少のトラブルを経験していくことと、一方的に相手をたたきのめし、心を砕くような、エスカレートしていく〝いじめ〟は、まったく違うものです。
いじめは決して、何かの「助けになる」ことなど、あるはずのない行為なのですから。