「どうせ俺なんか」“問題児”扱いだったADHDの少年がスケボー全国2位になるまで「出来る事は沢山ある」取り戻した自信

広畑 千春 広畑 千春

 4mの高さから椀型のパイプを一気に滑り降り、スピードに乗って鮮やかなエアーを繰り出す。練習しているのは「FS(フロントサイド)540」(前方一回転半)と呼ばれる大技。着地の際に「(ボードに)乗るのがめっちゃ難しい」といい、「出来たことはあるけど、まだマスターは出来てない。『乗ろう』と思うと乗れないねんな…」と何度も豪快に転けては階段を上り、スタート位置へ向かう。

 大阪府堺市の中学1年、有山大翔さん。小学1年からスケボーを始め、6年の最後に出場した今年3月の全国大会では、12歳以下の部門で準優勝するなど、注目のスケーターの一人だ。そして、発達障害の一つADHD(注意欠陥・多動性障害)の当事者でもある。

 「ADHDっていうのは…正直、『だからどうなん?』という感じ。そりゃ苦手なこともあるけど、出来ることは沢山あるから」とあっけらかんと話す。

運動会も発表会も走り回り…感じた「小さな“異変”」

 大翔さんは三人きょうだいの末っ子。母のみゆきさんはシングルマザーとしてフルタイムで働きながら、子どもたちを育ててきた。

 大翔さんは小さい頃から走るのが好きな、活発な子だった。小さな“異変”を感じるようになったのは、保育園の年少ごろから。運動会も発表会もずっと走り回り、自分の好きな歌を歌っていた。みゆきさんはビデオを撮るのもやめ、「迷惑をかけるぐらいなら休んだ方がマシかも」と悩むこともあった。

 それでも「発達障害」だとは思わなかった。「障害ってもっと生活に支障が出るレベルだと思ってて。大翔は遊んでいる時も本当に楽しそうにニコニコしているし、保育園でも友達と遊ぶより一人で本を読んでいる方が好きだけど、そういう性格なんだろうな、と。順番を守るのが苦手だったりする部分は、もう少し大きくなったら落ち着くんじゃないかと思った」。そう振り返る。

「団体行動は苦手やから。一人で出来る事が欲しかった」

 スケボーとは「とにかくいっぱい動けて疲れさせられて、集団行動じゃない習い事を」と探していたころ、偶然近くの公園で出会った。大翔さんは「最初は、楽しそうやな、って。団体行動は苦手やから、自分一人で出来ることが欲しかったから」と話す。転んでばかりでビギナークラスをクリアするまで1年半かかったが、大翔さんは転んでも転んでも諦めず、コーチも大翔さんが飽きないようメニューを組み合わせながらマンツーマンで教え続けてくれた。

 一方で、学校では「集中できない」「じっとしていられない」など困難さが増し、1年の担任には「手に負えません」とさじを投げられた。元々大きな音やザワザワした環境は苦手だったが、2年になるとイヤーマフを付けても耐えられず、授業中も教卓の足元に身を隠し、教室を抜け出すことも。学童では人数が多かった事もあってもめ事が絶えず「これ以上なら辞めてもらうしかない」と言われ、大翔さん自身も「俺が変わってるのは、お父さんがおらんからや」と言うようになり、「俺なんてどうせあかんわ」が口癖になった。

 「きっと誰かに母子家庭である事を何か言われたんでしょうね」とみゆきさん。「授業も、そんな状態なら何のために教室にいるか分からない。大翔が一番つらいんだろうな、と思った」と診断を受けることを決め、後日ADHDと診断された。

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