新曲「夢浪漫」ヒットに意欲のオール巨人 「昔の夢ってなんやったやろうか」歌手としての大成が夢

中将 タカノリ 中将 タカノリ

漫才で売れたら一日署長もできるしレコードも出せる

中将:歌手になりたいとは思われなかったのでしょうか?

巨人:若い頃は相撲取り、警察官、体育の先生とかなりたいものがたくさんあって、歌手もその一つでした。でもある日、気付いたんですよ。漫才で売れたら一日署長もできるしレコードも出せるなと(笑)。それで漫才の道に進むわけです。

中将:思惑通り、漫才師になられた翌年1976年には「巨人ファンここにあり/阪神ファンここにあり」というレコードを出されるわけですが、どのようないきさつでそうなったのでしょうか。

巨人:当時はお笑いで売れたら誰でもレコードを出す時代でした。会社から「みんな出すから阪神・巨人も出そうや」と声をかけられてコンビでレコードデビューしたんです。それが関係者の間で評判が良かったので、1982年にはソロで「あんじょうやりや」を出すことになりました。

中将:「あんじょうやりや」は作詞を喜多条忠さん、作曲をBOROさんが手がけたグッとくるミディアムナンバーですね。「お笑い芸人の歌」という感じではなく本格的な歌モノで、当時の巨人さんの意気込みが伝わってくるようです。当時はライブもやられていたんですか?

巨人:「花月」をもじったフラワームーンというバックバンドを作って、バナナホール(大阪)、チキンジョージ(神戸)とかでライブしましたね。自分の曲はまだ少ないからたかじんや松山千春さん、高山厳さん…あとは宇崎竜童さんの「ハッシャバイ・シーガル」も好きでよく歌いました。

中将:その後、90年代にかけて何枚かのレコードを出されますが1994年に中條かな子さんとデュエットした「FURIN」以降は長いブランクがありましたね。

巨人:会社から出してくれと言われることが無くなったので、なんとなく「仕事としての音楽活動はもう終わったのかな」と思い込んでたんです。

中将:2011年にシングル「桜の手紙」で音楽活動を再開されたのにはどんないきさつがあったのでしょうか?

巨人:その頃、僕はC型肝炎の治療でとても弱っていました。たった5段の階段を昇るのもしんどいような状態でね…。そんな僕の様子を見かねた神野美伽さんが「うちの旦那(荒木とよひささん)が曲書くから、好きな歌でも歌わへん?」と声をかけてくれたんです。ちょうど娘が結婚するタイミングやったんで、父から娘へのメッセージを込めたいい曲を作ってもらいました。

だけど、いざレコーディングに臨むと全然声が出ない。2曲録るだけで体力的にももうフラフラですよ。当然、仕上がりにも納得いかないし悔しさが残ったんですが、それがあらためて真剣に音楽に向かい合うきっかけになりました。

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