東京三大銅像、なぜ西郷隆盛像だけが普段着なのか… 鹿児島の西郷像は軍服姿

北御門 孝 北御門 孝

日本で初めて西洋式の銅像が建てられたのは1893年、靖國神社の大村益次郎像だそうだ。同じ頃に、皇居外苑の楠木正成像(1897年)、上野恩賜公園の西郷隆盛像(1898年)も建てられている。東京三大銅像である。大村益次郎と西郷隆盛はご存知のとおり、幕末から明治維新にかけて活躍した人物で、楠木正成のみが鎌倉時代の終わりから南北朝時代にかけて後醍醐天皇に忠義を尽くした人物だった。

三者の銅像のいでたちに注目してみると興味深い。大村益次郎が羽織袴姿に二本差しであり、楠木正成が鎧兜に騎馬姿であるのに対し、西郷隆盛は筒袖、へこ帯、草履履き、脇差、そして犬(ツン)を連れている。(鹿児島にある西郷像はまったく違ったいでたち)なぜ、西郷隆盛だけこのような普段着のような格好なのか。この違いには注目せざるを得ない。何か意図するところがあったのだろうか。

1889年の帝国憲法発布の際に「大赦」があって西郷隆盛はいわゆる国賊の汚名が解かれた。それに伴い、銅像制作が正式に決まったようだ。場所については皇居前に建てる案もあったが上野の公園内となり、軍服姿あるいは騎馬像の案もあったが、現在の筒袖姿となった。大赦を受けたとはいえ、西南戦争で賊軍として散った西郷の軍服姿の銅像を、皇居近くに建てるには反対する勢力も根強く、いまの筒袖姿に落ち着いたようだが、この「清貧さ」を表した像の制作に注力したのは同じ薩摩出身の樺山資紀らである。当時の栄耀栄華をきわめた明治政府高官への当てつけだったのかもしれない。(西郷隆盛ラストサムライ 著:上田篤)

上野恩賜公園内には他に「彰義隊」の碑が存在する。彰義隊といえば大村益次郎が指揮をとった新政府軍によって殲滅された旧幕府軍だ。(上野戦争)その「墓碑」と西郷隆盛像は目と鼻の先にある。両者の共通点は靖國神社には祀られていないということだ。靖國神社の前身にあたる東京招魂社の建立には大村益次郎が関わっている。そもそも東京招魂社は「名誉の戦死」をした新政府軍の兵を祀るために建てられたものである。当然、朝敵・賊軍・国賊は祀られないのだ。明治維新に功をなした西郷隆盛でも例外ではない。その後、靖國神社には日清日露をはじめとする戦争で戦死した英霊を祀ることになるのはいうまでもない。

参議を辞めた西郷隆盛が戻った薩摩に、江戸時代からの変わらぬ小国家があった。そして、士族の有為な人材育成のための私学校をつくり、座学と軍事教練を行った。「郷中教育」の延長だった。郷中教育とは、古くから薩摩藩内で行われてきた独自の教育制度であり、この教育制度があればこそ薩摩に傑出した人材が多数存在したといわれている。

映画「THE LAST SAMURAI」で描かれる山里は、この「郷中教育」の行われているコミュニティの理想のイメージを映像化されているのではないかと筆者は勝手に思い込んでいる。近代化を進め欧米列強諸国と肩を並べ、植民地化を避けることに成功はしたが、本当に革新的な近代化が正しかったのか。今更、時計の針を戻すことは叶わないが、いまだからこそ、明治以降に新政府が急進的に行った近代化の方策の是非について振り返ることは必要ではないだろうか。

まいどなの求人情報

求人情報一覧へ

おすすめニュース

気になるキーワード

新着ニュース