10年間の思いがあふれる「ありがとう」 家族以外と話ができなくなった「選択性緘黙」の男性が、踏み出した一歩

長岡 杏果 長岡 杏果

皆さんは「選択性緘黙(せんたくせいかんもく)」をご存じでしょうか?あまり聞いたことがないという方も多いかもしれません。選択性緘黙とは、ある特定の場面や人とは話せますが、それ以外では話せなくなる疾患です。過度の不安や緊張が根底にあると考えられています。

選択性緘黙に悩む30代のHさんは、13歳のとき家族以外と話ができなくなりました。「もう一生、家族としか話せない」と思っていたHさんでしたが、最近家族以外と話すことができるようになりました。きっかけは何だったのでしょうか。Hさんと母親から話を伺いました。

昨日までは話せていたのに…

Hさんは小さい頃から人見知りな一面がありましたが、仲のよい友達とゲームをしたり公園で遊んだりと元気な男の子でした。中学生になるまでは家族や友人、近所の人とも話ができていたのですが、中学1年生の夏休み後の初日、先生の一言がきっかけとなり、家族以外と話せなくなったのです。

その一言とは「夏休み明けなのに、顔が真っ白だな。クラスで一番、白いぞ」というものでした。

もしかすると人によっては気にならない言葉なのかもしれません。しかし中学生という多感な時期を迎えたHさんは、クラス全員の前でそう言われたことに大きなショックを受けたのです。

「先生が怖い…」そう強く感じたHさんは、先生と目が合うだけで心臓の音が外に聞こえそうな程の動悸を感じるようになったのです。翌日、Hさんは学校を休みたいという気持ちと、「休んではいけない」という思いの間で葛藤し、苦しみながらどうにか登校しました。

昨日までは誰とでも話せていたHさんですが、その日を機に家族以外と話せなくなったのです。

話さないのではなくて「話せない」

学校で誰とも話ができなくなったHさんは、仲のよかった友達に「何で話さないの」「何で無視するの」と言われ、先生には「反抗的な態度をとっている」と注意されるようになりました。

Hさんからすると無視をしているわけではなく、話したくても不安が先に立ち話せないのですが、そんなHさんを理解してくれる人は誰もいませんでした。Hさんの母親は先生と相談し、地元の大きな病院を受診した結果、選択性緘黙と診断されました。もちろんつらいのはHさんですが、Hさんの家族も突然のことに戸惑い、ときにHさんと言い合いになることもあったそうです。

「ありがとうございます」と言ったHさんの目から涙が

高校、大学を卒業したHさんは就職したいと考えていましたが、大きな壁にぶつかります。選択性緘黙に対する誤解です。家族と話せるため、家族以外とは「話さない」と思われてしまうのです。

主治医からのすすめもあり、Hさんは障害福祉サービスを利用して、施設で就労訓練を行うようになりました。その後、Hさんのまじめな性格や仕事に一生懸命取り組む姿が評価され、Hさんは障害者雇用として一般企業で雇用が決まりました。施設を利用してから約10年が経過していました。

施設利用の最終日、Hさんは施設の玄関先で母親と施設スタッフに「ありがとうございました」とささやくような声で話してくれたそうです。そのとき、Hさんの目からは、大粒の涙があふれ落ちていました。Hさんの母親はこのときの様子のことを、「長いトンネルの向こうから光が差し込んでいるようだった」と話してくれました。

現在、初対面の人とはまだすぐに話せませんが、慣れて気持ちを許せる人とは会話ができるようになりました。Hさんは職場環境にも恵まれ、パソコンを中心とした仕事に従事しているそうです。

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