いたちごっこを続けながら、なぜ70年間も営業を続けられたのか 兵庫「かんなみ新地」の最期を追った(2)

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2021年11月1日、兵庫県尼崎市で「かんなみ新地」と呼ばれる売春街が突然、一斉閉店しました。戦後間もなく生まれた非合法の街が、およそ70年も社会に黙認されながら、一日にして姿を消したのはなぜか。神戸新聞阪神総局のチームが、働いていた女性や、警察、市などの関係者に総力取材しました。

誕生秘話、この街の掟

 このまちが誕生したのは、さかのぼること70年ほど前、昭和20年代の半ばとされる。

 終戦直後から、阪神尼崎駅や出屋敷駅、国道2号の辺りの街角に、女性が立ち始めた。「街娼」と呼ばれる彼女たちは、次第に店舗型に形を変え、それが各地に集まって「青線地帯」と呼ばれる非合法の風俗街ができた。

 当時のかんなみ新地の呼び名は「パーク街」や「パーク飲食街」。「地元の70歳以上くらいの人は、みんなパークって呼ぶね。店の前には川が流れ、お客は橋を渡ってきてたらしいよ」と、ママさんの一人が教えてくれた。

 尼崎市立歴史博物館が市民とともに集めた証言記録によると、その由来は、隣接していた映画館「パーク座」だ。

 映画館を建てていると、建設業者が敷地内に勝手にバラックをつくり始めた。戦後の混乱期にあって、不法占拠につながりかねないと危惧した映画館の経営者は、そのまま乗っ取られないように貸店舗群を建てた。そこに売春店が集まり、「パーク街」などとして知られるようになった。

 映画館がなくなると、地名の「神田南通」から「かんなみ新地」と呼ばれるようになったという。

 当時の尼崎は労働者のまちとしての求心力を背景に、全国から職や日銭を求めて人々がやってきた。市内に青線は少なくとも9カ所あったとされ、そこで働く女性たちも例外ではなかったという。

 1958(昭和33)年に売春防止法が完全施行され、尼崎市にあった青線は姿を消した。ただ、かんなみ新地だけは、その存在こそ知られながらも、令和の時代まで残った。

 15年前に取材をしようとした記者は、ママさんの一人にこう言われたという。

 「ここらで人のことを根掘り葉掘り聞いたらあかんで。私らも聞かへんし。それが、この街のルールや」

警察には温情さえ感じる

 「今まで目をつむってもらっていたということは、私たちだって理解していた。正直、警察には温情さえ感じるんです。ただ、なぜ70年間も営業を続けられたのか、それは、私にも分かりません」

 ママさんの一人が言った。

 2年前から新型コロナが蔓延すると、周囲からの目線にはより気を配っていたという。緊急事態宣言中は休業要請に応じ、店を閉じていた。

 「できる限り迷惑を掛ないように。商売をさせてもらってるんだから。地域のことを考えると、好き勝手に営業するわけにはいかない。そう考えていました」

 それだけに、警告の唐突さにはうろたえた。

解体の舞台裏「もう時代が許さない」

 「かんなみ新地」一帯の非合法な風俗営業に対して、尼崎市と県警が直接的な警告を出すのは約70年の歴史で初めてだ。

 過去の資料をたどると、地元から立ち退きを求める陳情は続いてきた。風俗街ができて間もない1951(昭和26)年11月1日には、県が強制立ち退きに本腰を入れたという記事が神戸新聞に載っている。

 しかし、58(昭和33)年に売春防止法が完全施行されても、当局は手をこまねいてきた。

 この当時、かんなみ新地を取材した神戸新聞の警察担当記者がこんな証言を残している。

 「当時の尼崎市内には特飲街(買春街)も多くあって、はやっていました。それというのも、工場街に活気があって、労働者の数が多かったからでしょう。(警察は)『そのうち取り締まるわ…』というような具合です、たまに本当に取り締まるのですが、手入れ(警察の捜索)があることが店の方に筒抜けになってたりしてね。それでも時には経営者が何人かつかまったりしていました。(略)そのうちに女性たちは帰される。そんなことの繰り返しでした。昭和30年代当時は、あまりにひどいと警察は取り締まりますが、ふだんはなかば公認という感じでしたかね」

 「ほんとうに粗悪なバラックのような建物で、1階は椅子かなんかを置いて酒を飲ませる店のようなしつらえになっています。その奥の、狭いはしごのような階段をのぼると、すぐそこに布団が敷いてあるんです。2階は、まっすぐに立つと頭がつかえるぐらいに天井が低くてね」

 それから約50年を経た2006年の兵庫国体前にも、尼崎市や警察は「歓楽街クリーンアップ」と銘打ってパトロールを強化し、ひそかにかんなみ新地の解体も狙った。

 しかし結局、手付かずに終わる。

 「機運が熟していない。中途半端では逆に混乱を招いてしまう」

 捜査幹部らを悩ませたのは、摘発してもすぐに営業を再開される「いたちごっこ」だった。

兵庫「かんなみ新地」の最期を追った
#1 「直ちに中止せよ」戦後70年続いた街が、紙切れ一枚で消えたhttps://maidonanews.jp/article/14532423
#2 いたちごっこを続けながら、なぜ70年間も営業を続けられたのか
https://maidonanews.jp/article/14532548
#3 一日にして消えた街、取材で見えた三つの背景
https://maidonanews.jp/article/14532578

◆神戸新聞阪神総局
デスク2人と20~50代の記者8人で、兵庫県南東部の「阪神間」(尼崎市、西宮市、芦屋市、伊丹市、宝塚市、川西市、猪名川町)を取材しています。日々のニュースや何気ない写真、動画などをツイッターやインスタグラムでも投稿しています。
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