「私の人生で仰木さんに結婚式の招待状を出さなかったのは痛恨かも。まぁ、その前にストイックさが足りなかった、ですね」
88年オフにはひと悶着あった。近鉄打撃投手に内定した後に球団の了承を得て阪神の入団テストに参加したつもりが、それを知らない阪神側はトラブルに発展することを避けるため、不採用となった。「球団から『行っていい』と言われたのに急に『帰って来い』と言われて」。選手総会に訴え、近鉄と再契約後に住友一哉とともに佐藤秀明、福家雅明との2対2のトレードで阪神に移籍することになった。
その阪神では5月に2軍の浜田球場でラバーコートを着込んでの練習がたたったのか、ランニング中にめまいで倒れて救急搬送。
「肘も限界。引退を悟った」
このとき、29歳。長女が誕生していたが「裏方になるのは違うかな」と球界にキッパリと別れを告げた。宅建士の資格を取り、2年ほど不動産関係の仕事に就いたが、家族の生活のために31歳で運送業へ。「食べていけるし、これでいいかな」とささやかながらも幸せな日々を送った。
だが、不惑を前に転機が訪れる。校内のヒーローだった市岡高時代。仲の良かった同級生から本心を見透かされたような言葉を掛けられた。
「いまのままでいいのか。落ち込んでいるお前を見たないよ」
頭に浮かんだのが高卒でも受験可能な司法書士の試験。それまでは日々の生活もあり踏み込めなかったが、幸か不幸かバイク事故にも遭い、いくらかの保険金も手にした。
「別にトラックの運転手がダメというわけじゃないんです。そのとき、離婚もしていて、もう一度人生やり直そうと思ったところだった。偶然保険金が入り、それを専門学校の入学金にした。“人生変えろ”という神様のお告げと思えたんですよ」
40歳の再チャレンジ。早朝5時から食料品店でアルバイトし、昼12時から夜12時まで猛勉強。「知らない知識がどんどん増え、毎日が楽しかった。友だちの叱咤激励もあったし、市岡を出ているというのが励みにもなった」と振り返る。