古豪・市岡出身で最後のプロ野球選手 40歳の挑戦で司法書士と母校コーチの二刀流

あの人~ネクストステージ

山本 智行 山本 智行
司法書士、母校コーチの二刀流で充実した日々を過ごす南秀憲さん
司法書士、母校コーチの二刀流で充実した日々を過ごす南秀憲さん

 大阪の古豪・市岡から1978年にドラフト2位でヤクルトに入団。その後、近鉄、阪神と渡り歩いた南秀憲さん(58)は現在、大阪市西区に司法書士事務所を構えている。40歳で一念発起し、3度目の試験で超難関を突破。挑戦を支えたものはなんだったのか-。

 「みなみ司法書士事務所」は大阪メトロ「阿波座駅」10番出口からすぐのところにある。45歳で独立。落ち着いた物腰からは想像しにくいが合格率3%と言われる超難関の試験を突破したときには「飛び上がって喜んだ」という。

 生まれは大阪・九条。小学2年からリトルリーグに入った。憧れたのは投球を間近で見ていた4歳上の藤田正樹さん。市岡高から慶大に進んでおり、早慶戦で投げるのを夢見て、文武両道の市岡を受験した。

 「私学から誘いもあったけど、藤田さんの後を追って慶応に行きたかった。自分で言うのもなんですが、頭もまあまあ良かったし、自分より速い球投げるピッチャーもいなかったので1年秋からエースで4番でした」

 だが、当時は“逆転のPL”時代だった。甲子園出場はならず、3年夏は初戦こそ完封したものの、2回戦で敗退。慶応大のセレクションに備え、猛勉強していると、ある日異変に気づく。

 「帰る度に家の水屋に高級おかきが5つ6つと積み重なっていってね」。プロのスカウトの訪問。最終的には広島を除く11球団にあいさつを受け、将来は弁護士か新聞記者になろうとしていた気持ちが揺らぎ始めた。

 「スカウトの人は口がうまくてね。『君ならすぐにでも通用する』と持ち上げられ、心はプロに傾きました」

 西武、近鉄と3球団競合の末、右投げの本格派として期待されてドラフト2位でヤクルトへ。しかし、7年間で5度もユマキャンプに呼ばれながら2年目でつかんだ初先発の大洋(現DeNA)戦で基満男に満塁弾を浴びるなど、結果を出せないまま85年に近鉄へ金銭トレードで移籍する。だが、ここでも1軍での出場は3年間で2試合にとどまった。

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