風光明媚な観光資源に恵まれた奈良県吉野郡十津川村。じつは面積が日本一広い村だということをご存じだろうか。その歴史は古く、なんと日本書紀に記された神話の時代までさかのぼることができる。
そんな十津川村について村役場に聞いた。
日本一広い村「十津川村」はまるで村じゅうが観光スポット
奈良県の最南端に位置し、西は和歌山県、東は三重県に接している十津川村。この地域にはもともとは6つの村が存在していた。それが明治時代に合併して、十津川村が誕生した(後述)。
「現在の面積は672.38平方キロメートルで、村としては日本一の広さを誇ります」
よくある比較でいうと、東京ドーム約1万4381個分。琵琶湖(670平方キロメートル)より少し広く、対馬(696平方キロメートル)より少し狭いイメージだ。
十津川村は「村」としての面積が日本でいちばん広い村なのだ。
十津川村は、熊野本宮大社へと続く世界遺産の熊野古道小辺路をはじめ観光資源に恵まれており、雄大な自然や温泉などさまざまな観光スポットを目指して、年間多くの観光客が訪れる。
「村の入込客数は、2022年度599,695人、2023年度は642,662人です」
とりわけ温泉は、村内全域が源泉かけ流しだという。2004年、十津川村は全国で初めて「源泉かけ流し宣言」をした。すなわち湯の循環や再利用をせず、もちろん沸かさず薄めず、そして塩素消毒をせず、潤沢に湧出する温泉のみを利用している。
ほかにも、熊野川(十津川)にかかる高さ54m、長さ297mの「谷瀬の吊り橋」(冒頭の写真)は、生活用鉄線吊り橋としては日本一の長さを誇り、玉置神社は10代崇神天皇が建立したとも伝えられている。さらに太古の自然を残す大峡谷「瀞峡」、落差約32mもある「笹の滝」など、村じゅうが観光スポットといっても過言ではない。
神代の時代にまでさかのぼる十津川村の歴史
村役場から提供された資料によると、十津川村の歴史は、古事記や日本書紀に記される神話の時代にまでさかのぼるという。
初代神武天皇が紀州に上陸したとき、熊野の神に毒気を吹き付けられて苦戦するが、天照(あまてらす)の助けにより布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)を得てその場を凌ぐ。その後、険しい陸路で熊野を目指しているとき、天照より遣わされた頭八咫烏(やたがらす)が一行の道案内をした。「十津川」という具体的な名称は出てこないが、この頭八咫烏というのが比喩的な表現で、じつは十津川の人々の祖先ではないかとする説もあるそうだ。
また、言い伝えによると、玉置神社は紀元前37年、10代崇神天皇が王城火防鎮護と悪魔退散のため、早玉神を奉祀したことに始まるとされる。
「とつかわ」という名称が文献に表れるのは、「高野山文書」(高野山金剛峯寺に伝わる文書の総称)で「遠津川」と表記されているそうだ。都や津(港)から遠いことを意味するという。
中世の十津川郷の村々は、1585年に秀吉の異父弟にあたる豊臣秀長が行った検地を受け、以後100年ほど「十津川組」あるいは「十津川中(読み方不詳)」と呼ばれた。それが現在の十津川村の原形であろうといわれる。
江戸時代が終わり、明治になると村は奈良府(1868~1869年まで存在)の管理となった。十津川が大きく変わったのは、1889年8月に発生した大水害で、当時6つの村からなる十津川は死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋426戸、半壊家屋184戸、水田の50%と畑20%が流亡するという甚大な被害となった。このとき生活の立て直しが困難な村民2,489人が、政府の方針に従って移住した北海道の地であらたにつくった町が新十津川町である。
水害のあった翌年、北十津川村、十津川花園村、中十津川村、西十津川村、南十津川村、東十津川村の6カ村が合併して十津川村が誕生。北海道の新十津川町との間では、親密な交流が今も活発に続けられている。
十津川村
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