事故や病気によって、それまでの生活が一変することは誰にでも起こりうる。上田欣弥さん(52)は昨年8月に自転車での移動中に脳梗塞で意識を失い、救急搬送された。意識を取り戻したのはそれから2日後。自分の身に起きた現実を知った上田さんは、病床から自撮りした写真とともに以下の文面をSNSに投稿した。
「入院しました。……幸い五体は満足、左顔面の麻痺はありますが、応答もはっきりでき、何より両手の指が動くのがありがたい。文字が書けるのですから。これにはさすがに涙が流れ、亡くなった両親に幸運を感謝いたしました。……」
上田さんは物書きだ。大学中退後、海外を放浪、新聞社でのアルバイト勤務、30歳を超えてから再び大学受験そして卒業、紆余曲折があってこの20年余り医療事務の仕事を渡り歩き、その合間に物書きをしている。何者かになりたく、会社勤めや結婚にはまったく興味を持てなかった。アウトドアが好きで、時間ができれば折り畳み自転車とテントを持って国内外を一人で旅した。贅沢とは無縁だが、束縛されない自由で気楽な暮らしが性に合っていた。そんな日々がこの先何十年も続くと思っていた。
「3年前に父を病気で亡くしました。唯一の肉親であり、僕にとっては師であり同志であり親友のような存在です。『天涯孤独になった』言い様のない喪失感と孤独感に襲われ、何もする気が起こらなくなりました。そしてその2年後には僕自身が脳梗塞で倒れ……。SNSでは強がりを言っていますが、なんてツキの無い人生なんだろうと自暴自棄になりました」
上田さんいわく昭和10年生まれの父親は抜群に頭が切れる人だった。会社勤めをしていたが、上田さんが小学生の時に会社を辞めると、上田家の経済状況は一変した。幼稚園の頃から通っていたスイミングスクールをやめ、新聞配達で家計を支えることを強いられる。経済観念はゼロ、地頭は良かったが人付き合いが苦手で、他人からは気難しいと煙たがられる父親だったが妻と一人息子には愛情深く、登山と孤独をこよなく愛した。上田さんがアウトドアや一人旅を愛するのも父親の影響だ。
「コンピュータの黎明期といわれた時代に、海外から資料を取り寄せて自分でコンピュータを作るような人で、インターネットの概念すら一般にはなかった時代にコンピュータはいずれ通信機器になると言っていました。世間が好景気に浮かれていたバブル期には、日本はしょせん貧乏国なので(社会や会社に頼らず)自分自身で稼ぐ術を持つべきと、自分のことは棚に上げて偉そうに言っていました(笑)。ひがみ根性で言っているくらいに当時は受け止めていましたが、未来は父が言った通りになりました。先見の明があって、境遇が違えばすごい人物になっていたかも知れません」と上田さんは父親の話をすると止まらなくなる。
上田さんが父親を尊敬するのは、頭が切れるからという理由ではない。父親より6歳年上で病気がちだった上田さんの母親を車で往復2時間かけて毎日通院の送り迎えをし、2004年に母親が亡くなった際は、他人に涙など見せたことのなかった父親が声を上げて泣きじゃくった。母親への愛情の深さこそが尊敬の理由だ。
父親の死、自身の大病、立て続けの不幸に、退院後もふさぎ込みがちになっていた上田さんに叱咤激励をしたのが、以前の職場で知り合った3歳年下と9歳年下の親友だった。年齢こそ違うがお互いに夢を語り合う中で、二人には「物書きで頑張る」と言って前の職場を去った。しかし実情は物書きとしての活動は芳しくなく、病になった負い目から外部との交流を避けるようになっていた。
「物書きとは名ばかりで、医療事務の職場と自宅の往復の日々でした。そんな僕の姿を知った親友たちは、『お前に夢を語る資格はない』など辛辣な言葉を浴びせてきました。正直頭にきましたが、僕のことを思っての彼らなりの激励です。『お前はもっと人と関わっていくべき』と外に連れ出し、よく一緒に遊んでくれました。彼らがいなかったら、今ごろどうなっていたか分かりません。『人は一人では生きていけないし、一人で生きちゃいけないんだ』アニメの名ゼリフですが、本当にそう思います」
上田さんにとって、親友二人は年齢こそ自分より若いが頼りになる存在で、彼らのおかげで人生のどん底から這い上がることができた。これまでいかに自分がいい加減にのほほんと生きてきたかを思い知らされ、50歳を過ぎてやっと自分がやるべき、本当にやりたいことが見えてきたと話す。
「この病(脳梗塞)はまたいつ再発するか分かりません。元気でいられるのは10年、長くても15年と思っています。幸か不幸か独り者なので、好きなことをして残りの人生を駆け抜けるつもりです。物書きとしてどんな仕事も引き受け、自分が生きた証として愛する父と母の人生を記したものを形として残したいです。それから、幸い体は動くので自転車での旅を再開して、旅の様子も記したいですね。もちろんそれでは生活ができないので、医療事務の仕事を続けながらになりますが」
父親が元気だった頃、脳梗塞を発症する以前には窺えなかった人生の覚悟が、今の上田さんには確かに窺える。