「実は丸々52年と2日なんですけどね」
にこやかに話すのは笑福亭仁智さん。故・三代目笑福亭仁鶴師匠の一番弟子で、現在上方落語協会の会長。2023年4月2日、なんばグランド花月で「芸歴五十周年記念・古希記念公演」の独演会を開きます。
噺家になろうと思って仁鶴師匠に電話しました
「噺家になろうと」思ったのは高校2年の時。卒業してすぐ、当時深夜ラジオ「朝までご一緒に」や「頭のマッサージ」「バチョン」といった番組で大人気だった笑福亭仁鶴師匠に弟子入りをします。
「タイミング的に良かったんですね。その時うちの師匠は10年目、それまで弟子を取らなかったけど、そろそろ取ってもええかな、という時期でした」
弟子入りを願い出たのは電話だったそう。それで師匠の収録の時、ラジオ局の近くの喫茶店で会って、「とにかく1本落語を覚えておいで」と宿題を出されました。1カ月後、「池田の猪買い」を師匠の前で語りました。
「もうマシンガンのように(笑)。間ぁもなんもあったもんじゃない。とにかく覚えたことをやりました。ほんなら、まあおいでえな、言われて。そのかわりまた3カ月後にテストするよ、て(笑)」
それが高校3年生の年末でした。年が明けて、授業がなくなる2月頃から通い始め、4月1日から正式な弟子になります。
その頃の仁鶴師匠の高座を収録したLPレコードがあります。その中で、枕を話されているときに突然「あ、いま出ましたん私の弟子で、」というシーンがあります。その「弟子」はまさに仁智さんその人でした。
「覚えてます。あれはうめだ花月の師匠の独演会でね、夏場やったんでしょうね、なんか師匠が高座でえらい汗掻いてはりましてね、周りに居てはった人が『これ持って行ったり』ゆうてタオルをね。今やったら考えられへんでしょ、そんなん。高座で喋ってるときにね(笑)うめだ花月やったからできたんかなあ」
古典落語から創作落語へ、そしてスタディベースボール
そんな仁智さん。最初は古典落語をしていましたが、途中から新作落語に軸足を移します。桂三枝(当時、現在は桂文枝)さんに「君の喋り方は新作に向いてるで」と誘われて、創作落語の会に出たのがきっかけです。その時のネタ「スタディベースボール」が一躍話題になりました。
「なんかネタが無いかなと新聞を見てたら、ある学校の校長が『野球部員の勉強の成績が良くない。勉強せえへんかったら試合を辞退させることも考える』なんて記事があって、それで考えついたんです。野球と勉強を結びつけたらどうかな、と。そのアイデアを染二(現在は林家染丸)さんに話したらね、あの人野球はまったく知らんのです。それでいろいろトンチンカンなアイデアが出て、逆に野球好きでは思いつかんような。ええヒントをいただきました」
スタディベースボールは、ヒットを打って塁に出るとそこで問題が出されて、正解するとセーフ、間違えるとアウト、というルールで阪神と巨人が戦う噺。かしこばっかり集めて野球は下手だが問題に強い巨人と、野球は上手いが問題に答えられない阪神。優勝がかかった大一番で繰り広げられる名勝負が爆笑を呼び、仁智さんの代表的なネタになりました。
1999年から150回続く「笑いのタニマチ」
その後仁智さんは、1999年6月から新作落語の勉強会「笑いのタニマチ」を、ほぼ2カ月に1回のペースで開くようになります。谷町六丁目にあった薬業年金会館の和室を使っていましたが、建物の建て替えで2017年3月24日が最後になってしまいました。その後タニマチは天満天神繁昌亭に場所を移して、年に4回ほどのペースで回を重ね、今年3月8日にはついに第150回記念の会が開かれました。中入り後には映像で過去を振り返るコーナーもあり、満席のお客さんは大爆笑でした。
4月2日の記念落語会に向けて気合いを入れる仁智さんですが、一方で「五十周年落語会を節目にね、薬業年金会館の時みたいに、演者も聞き手もはらはらどきどきするような会にもチャレンジしていきたいなあ」と語ります。
「新しい噺をね、こんなん作りましたー、あー、今回はあかんかったなー、みたいなんも楽しめるような人がね、50人くらい集まるような、そんな会場のそんな会をね」
落語の可能性をこれからも追う仁智さん。古希にしてますます楽しそうです。芸歴五十周年記念・古希記念公演、ぜひお運びください。