彦根城天守は明日解体という寸前で保存が決まった。きっかけは1878(明治11)年10月、大蔵卿・大隈重信の見学だった。大隈が新聞記者に語った回想録によると、「旧藩士の至情に動かされたんだよ」。滋賀を行幸中の明治天皇に保存を進言し、解体が中止された、とされる。
彦根市世界遺産登録推進室の小林隆室長は「最後のチャンスとみて、地元側による周到な仕掛けがあった」とみている。
回想録によると、大隈が城に立ち寄ったのは、近くの製糸場と学校を視察したついでだった。道すがら、不思議にも多くの老若男女が城へ押し寄せ、涙を浮かべる古老もいた。問えば「我[われら]等の祖先が三百年間仰ぎ見た彼の天守閣も、最早[もはや]再び仰ぎ見ることは出来ぬのでありまする」と返され、思いを寄せた。
小林氏はいう。「他にも明治天皇の縁戚だった福田寺住職の妻が保存を訴えた逸話もある。大隈の働きかけが得られるよう、多くの人を動員して機運を盛り上げたように思える」
城の解体は一部を除き、幕末に200近くあった各城でみられ、分権的な幕藩体制から中央集権的な新体制へ切り替えてゆく流れに沿う。ただし、彦根では近江の政治・軍事拠点の地位まで失われていった。
71年の廃藩置県で藩に代わる彦根県庁が城に置かれたが、現在の滋賀県に統合される流れで、県庁所在地ではなくなった。同年、陸軍の大阪鎮台分営が城に駐屯したものの、73年に部隊が伏見へ移り、75年に大津営所が新設されると、軍事施設でもなくなった。
78年9月、城の解体が始まると、天守こそ残った一方、表御殿など建物の大半がうせた。城下の武家屋敷も含め、9割が姿を消した。「県都や軍都でなくなり、城も全解体寸前だった。政府中枢にいた薩長側から、かつて弾圧された井伊直弼と彦根への意趣返しもあったか」(小林氏)
一方、残った彦根城や近くの空き地を生かし、教育と産業の二つに活路を見いだす動きが出てくる。教育では76年、藩校跡に西本願寺の金亀教校(後に移転、現平安中高)と近くに彦根学校(現彦根東高)が開校した。産業では武家屋敷跡の桑畑化にとどめず、製糸工場が設けられた。そして城の主要部は94年からの井伊家所有を経て、1944年に彦根市へ寄付された。大隈は「井伊大老の壮図を偲[しの]び、且は江州湖上の風光を楽(し)みたい」と念願したが、いまやだれもがかなえられる市民の城になった。