京都市北区で材木会社を営む男性が、大地震などの災害時にすみやかな住宅再建を支援するため自主的に続けていた建材の備蓄を今月で取りやめる。1995年の阪神・淡路大震災を受け、さまざまな業種の職人や店主たちと共同で始めたが、さまざまな理由でメンバーが去り、近年は一人で続けていた。倉庫の費用もかさみ、「個人でやるのは限界を超えた」という。
岩井木材社長の岩井清さん(69)。兵庫県西宮市の大学を卒業し、新卒で入った勤務先も神戸市にあるなど、阪神・淡路の以前から被災地とゆかりが深かった。
京都でも震度5を観測した95年1月17日、岩井さんは揺れが気になったものの、早朝から仕事に取りかかっていた。自宅にいったん戻った際、テレビを見て思い出深い土地に大きな被害が出ていると知った。震災後4日目にブルーシートなどの支援物資を持って被災地に向かったという。
現地では、自宅が損壊した多くの人が避難所暮らしを余儀なくされているのを目の当たりにした。「神戸で起こったような地震はいつ京都で起こってもおかしくない。災害があったときに家をすぐ直して、被災者が住めるようにしないといけない」という思いを強くした。
岩井さんはその後、京都の竹材店や畳店の店主、左官職人らと共同で、災害時に住宅再建に使う建材などの備蓄を始めた。フローリング材や合板、さらには浴槽や洗面台なども購入し、岩井さんが保管した。
しかし、震災から15年経った2010年ごろから、メンバーの引退や死去などで、備蓄は事実上、岩井さん一人で行うようになっていた。多くの建材を保管できるよう倉庫を複数借りたため費用はかさんだが、取り組みが役立った場面もあった。15年の関東・東北豪雨の際には、被害を受けた茨城県常総市の団体からの依頼で床材を提供した。
しかし、阪神・淡路から25年を迎えた昨年、岩井さんは古希を前にして倉庫の整理を決断した。
未使用の建材が多いため、京都府や京都市に寄付の打診をしたが「場所がなく、建材などの備蓄は考えていない」と断られた。倉庫には今も、ビニールに覆われた合板や手つかずのままの浴槽が眠ったままだ。
岩井さんは「備蓄した建材があまり使われることがなかったのは、京都に大きな災害がなかったということ。備蓄は自己満足という結果で終わってもいいのかもしれない」と語る。近く倉庫を整理するつもりで、今後は未使用の建材の引き取り手を探すという。