「時は止まっていたが汽車は走っていた」。鉄道紀行文の作家として知られる宮脇俊三さんは1945年8月15日の玉音放送の日の様子をこう記しています。75年前の第2次世界大戦末期、日本国内では列車が走り続けていました。人や物資の輸送に欠かせない鉄道網は、米軍にとっても重要な攻撃目標となりました。そうした鉄道と戦争の関わりを物語る遺跡が滋賀県にあります。
東海道新幹線の米原駅(滋賀県米原市)から北に約1・5キロメートル。山のふもとにぽっかりと二つの穴が開いています。鍾乳洞? いえ違います。これは機関車を避難させるためのトンネルです。第2次世界大戦末期に造られた、れっきとした戦争遺跡なのです。
米原駅は、東海道新幹線をはじめ、東海道線、北陸線が乗り入れ、名古屋や大阪、金沢方面への各列車が乗り入れる比較的大きな駅です。かつては多くの機関車を止めておく米原機関区がありました。
第2次世界大戦中も、米原駅の一帯は北陸や東海、近畿各方面の人や物資が集まり、とても重要な拠点でした。それゆえに、米軍にも狙われました。「本土決戦と滋賀」(サンライズ出版)によると、米原駅付近では1945年7月28日と30日にロケット弾での攻撃があったといいます。
空襲の被害を最小限にするため、機関車を逃がす-。そうした狙いでトンネル工事は始まりました。建設予定地となったのは米原駅の北側にある、標高120メートルほどの岩脇(いおぎ)山。チャートと呼ばれる比較的硬い岩石の山です。
「本土決戦と滋賀」によると、工事開始は沖縄での組織的戦闘が終結に向かい、本土決戦が現実味を帯びつつあった1945年6月ごろとみられています。
工事は急ピッチで進められましたが、開始から2カ月後に終戦。1本のトンネルは貫通したものの、列車を通すほどの大きさにまで広げることはできず、もう1本に至っては貫通さえしませんでした。
戦後は近隣のゴミ捨て場などとして使われていましたが、2008年に住民が貴重な戦争遺跡として整備。2017年には米原市の指定文化財(史跡)「蒸気機関車避難壕(ごう)」になりました。
貫通している東側のトンネルは最も大きい場所で幅約3メートル、高さ約5メートル、延長約110メートルです。一方、貫通していない西側は幅や高さがほぼ同じですが、北側は約13メートル、南側は約53メートルまで掘られています。
現在は、地元住民でつくる「いをぎ町づくり委員会」が避難壕を管理しています。事前に委員会に連絡をすれば中を見学することは可能です。フェンス越しに内部をのぞくだけでも、急ごしらえのトンネルの様子から大戦末期の状況をうかがい知ることができます。