映画「沖縄戦」ナレーター・斉藤とも子の思い「沖縄は今も何も変わっていない」「証言は宝」

北村 泰介 北村 泰介

 1970年代の学園ドラマでアイドル的な人気を博し、近年は介護福祉士としても活動する女優・斉藤とも子が、ドキュメンタリー映画「沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(太田隆文監督、25日から東京・新宿K’s cinemaを皮切りに全国順次公開))でナレーターを務める。38歳で大学に入学し、広島や沖縄の人たちと対話し、福祉の現場を歩んできた斉藤が、人生を2度生きることになったターニングポイントと沖縄への思いを当サイトに語った。

 神戸で生まれ育った。11歳で母をがんで亡くし、中学生の時に医師だった父の仕事の関係で東京に転居し、15歳で女優デビュー。「学園ドラマの優等生役に抵抗があった」という思いもあって都立高校を中退して芸能活動に打ち込んだ。25歳の時に当時53歳の喜劇俳優・芦屋小雁と結婚して話題に。関西拠点の夫との生活で地元にUターンした。95年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、長男、長女と共に神戸市北区の自宅で激しい揺れを体感した。

 震災直後の1月末からドキュメンタリー番組のリポーターとしてタイの山岳民族の村で約40日間を過ごしたことも意識の目覚めを後押しした。「神戸では物がなくなれば支援を待つしかなかったが、タイの村で同じことが起きても、この人たちは自給自足の生活でやっていけるなと。そこで意識が変わった。自分はどういう生き方をしてきたのかと思い始めていた同じ年の9月に沖縄で米兵少女暴行事件が起き、この背景には何かある、もっと勉強したいと思いました」

 同年に離婚し、2人の子どもを連れて上京。「私にとって1995年は震災を始まりとして大きな境目でした。あの年に自分の生き方がグッと変わったと思います」。大検を受け、三浪し、4年をかけて大学に合格。原爆投下後の広島を描く二人芝居「父と暮せば」出演を機に、被爆者の生活史を卒業論文とした。大学院では「きのこ会」という胎内被爆小頭症を抱えた家族の歩みを修士論文に。08年から昨年末まで高齢者のデイサービスセンターで介護福祉士として勤務した。

 「広島の被爆者のことを調べていくと、差別や国の対応の問題など、沖縄と似ているところがあると思いました」。時を経て、広島と沖縄がつながった。

 沖縄との最初の接点は23歳の時に出演した映画「ひめゆりの塔」。合宿や撮影等で半年間滞在し、ひめゆり女子学徒隊の人にも接した。

 「当時の私はまだその奥にある痛みがよく分かっていなかった。その後も何度か沖縄を訪ね、うかがった証言が心に刺さりました。『この戦争は正しくて、自分たちは素晴らしいことをしに行くのだと思っていたけれど、現場で分かった。正しい戦争なんて絶対にない。ただの殺し合いです』と」  

 今作では、沖縄戦の体験者らの証言を中心に米軍撮影の記録フィルムを交え、上陸作戦から戦闘終了までを描く。20万人以上の戦没者のうち、沖縄県出身者は12万2282人(沖縄県生活福祉部76年発表)。当時、沖縄県の人口は疎開者をのぞくと約51万人で、約4人に1人が亡くなったことになる。そのうち、一般住民の死者は約9万4000人。親が泣く子を殺すという地獄絵もあった。

 「私には1歳の孫がいて、一緒に住んでいるのですけど、夜泣きとかでご近所の人が気になるわけです。壕の中でお母さんが泣き続ける子どもを自分の手にかけざるを得なかったこと、その痛みは本当に、孫が泣くたびに、どんなにつらかったかと思います。でも『静かにしろ』という人も責められない。戦争がなせる悲劇だと思います」

 そして、本土決戦への「時間稼ぎ」と指摘される沖縄戦から現在の沖縄を思う。「人を人とも思わない、犠牲だけを強いる行為ですよね。でも、辺野古基地の埋め立てを見ると、今も、何も変わっていないと思います」

 沖縄戦から75年後の夏。「完成作を観て思ったのは『この証言が宝』ということ。証言の重さと体験の深さ、言葉の裏にあるものがどれだけ見る人に伝わるか。私のナレーションが、その邪魔になっていなければいいなというのが願いです」。気持ちを入れ込み過ぎず、淡々と伝えるように心がけたという。

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 斉藤とも子 1961年3月14日生まれ、神戸市出身。76年、NHKドラマ「明日への追跡」でデビューし、「青春ド真中!」「ゆうひが丘の総理大臣」「男たちの旅路」などに出演。99年、東洋大学社会福祉学科入学。05年、同大学院修士課程卒業。修士論文に加筆した著書「きのこ雲の下から、明日へ」を出版。社会福祉士、介護福祉士。親和女子大学客員教授。

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