Withコロナ時代、僧侶×臨床心理士の吉村昇洋氏に聞く不安や恐怖に翻弄されない生き方

渡辺 陽 渡辺 陽
吉村昇洋氏
吉村昇洋氏

新型コロナウイルスに感染した患者や家族に対する嫌がらせや誹謗中傷が後を絶ちません。2020年4月22日、三重県の鈴木英敬知事は、新型コロナウイルスに感染した市民の家に石が投げ込まれ、ガラスが割られた被害があったことを明らかにしました。野球解説者でコロナに感染した梨田昌孝さんもNHKの「ニュースウオッチ9」にリモート出演し、「本人が傷ついている時に追い打ちをかけるような感じで、人を誹謗中傷するようなことはやっぱり避けてほしい」とやりきれない面持ちで語りました。

さらに、命の危険を顧みず患者の治療や検査、看護にあたっている病院の医師や看護師などに対し、保育園の登園を拒否したりタクシーの乗車を拒否したり、引っ越しを断るという事例も数多く報告されています。

自粛しないで営業を続ける店舗、勝手に他人の行動を監視する自粛警察まで出現し、「俺はコロナだ!」と叫んで逮捕される人も出没。私たちは、一気に混沌とした世界へと否応なしに引き込まれたのです。

5月末、緊急事態宣言が順次解除され経済活動が再開しましたが、6月2日には東京アラート発動され、北九州市ではクラスターが発生。ワクチンや特効薬があるわけではなく、いつ誰が感染してもおかしくない状況にあると言っていいでしょう。

コロナと共に生きていかねばならないいま、曹洞宗八屋山普門寺の副住職で臨床心理士でもある吉村昇洋さんは、偏った正義感に基づく錦の御旗を振りかざし、人を差別したり傷つけたりする人に「冷静になって自己をみつめて欲しい」と言います。

錦の御旗を掲げコロナ患者や医療者を差別、攻撃する人たち

――新型コロナによるさまざまな対立が勃発していますが、原因は何なのでしょうか

吉村昇洋さん(以下、吉村) 心理学では自分と同じ考えの人を内集団、対立する人を外集団と考えます。新型コロナの場合、感染した人と感染していない人、自粛している人としない人、感染者の多い地域と少ない地域、などさまざまな内集団と外集団が存在し、対立しています。

今回の場合、合コンや夜の街で濃厚接触した人たちが感染、発症したことで、「コロナにかかる人は愚かな人だ」と思われやすい傾向にあります。一方で、自分自身はそんな行動は取っていないし、取る気もないので、内集団は「正義」、外集団は「悪」という認識になりやすい。

また、感染の有無に関わらず、医療者や医療者の家族が差別されていることも非常に問題です。医療者は感染リスクが高いというだけで、「感染しているのではないか」と強く反応されてしまっています。新型コロナに対応している医療者が全国にどれほどたくさんいるのか、冷静に考えれば分かりそうなものですが、実際に感染したのはそのうちのほんの少数に過ぎません。みなさん相当な経験を積みながら対応していて、自分たちへの感染対策もできる限り行っているので、感染はかなり抑制されています。しかし、そんな現実は無視され、何となくの印象だけで簡単に差別されています。差別をする人は、“自分たちを感染から守る”という錦の御旗を一心に掲げて、無邪気に外集団を攻撃していきます。

――感染を恐れるあまり、根拠もないのに外集団の人を攻撃してしまうのですね。

吉村 8割の人は軽症で終わるわけですし、気付かないまま治っている人もいます。市中感染もしているでしょうから、いまは誰がうつしたとかうつさないというフェーズではありません。うつしてもうつされても「お互いさま」という感覚を持てるかどうかが問われています。こんな時に他者を差別するというのは、全く健全ではありません。

 生と死は表裏一体、コロナで死ぬかもしれないという覚悟を

――差別された人が傷つくとは思わないのでしょうか。

吉村 こうした場合、他者を罰することで単純に「安心」したいのです。正義の名のもとに他者を罰するので、心のハードルも低くなる。人は慢性的に不安だと攻撃性が高まりまして、容易に肉体面/精神面の暴力に結びつきます。蓄積された不安をちゃんと自分自身で見つめられるかどうかが心の安定に欠かせません。

不安を解消するために誰かを攻撃すると、一時的に不安が解消されます。そのため、誰かを罰してすっきりしたい人たちが増えるのですが、反面、彼らは「自分の家族や周囲の人を守らないといけない、愛によるものだ」と主張するので、面と向かって否定しづらくもあります。

否定すると、「自分の親や身内がうつされて殺されても、“お互いさま”なんて言えるのですか!」と言う人も出てきますが、コロナはいつうつるか分かりません。三密を避ける、マスクをつける、こまめな手洗い、外から帰ってきたらすぐに服を洗濯するなど、自分にできうる最大限の防衛策をとって、どんなに気をつけていても、うつるときにはうつる。つまり、誰もが「うつる」ことを覚悟しないといけませんし、それにより死に至るかも知れない。

仏教では生と死は隣り合わせだと自覚し続けます。常に自分の死と向き合うのです。そこで誰かを責めてもどうにもならない。人間はいつ死ぬか分からないのです。

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