明治時代初頭に建てられた京都府南丹市園部町の園部城跡が「日本最後の城」として脚光を浴びている。市は園部藩立藩400年にあたる今年、城にちなんだイベントを催し、にぎわいづくりを仕掛け始めた。なぜ、明治維新という激動の時代に築城が許されたのか。市民の間では「京都の明治天皇をかくまうため」という説がまことしやかに語られている。謎を追った。
高校生が楽しそうに会話をしながら重厚な門をくぐる。園部高は園部城跡に校舎が建ち、城の櫓(やぐら)門や2層の巽(たつみ)櫓、番所が残る。櫓門は往時と同様にかんぬきを用いて開閉し、現役の正門として活用されている。
1869(明治2)年の園部城の完成には紆余(うよ)曲折があった。園部町史などによると、園部藩は出石藩主だった小出吉親が1619年に転じて誕生した。小出氏は豊臣秀吉と深い関係にあった外様大名で、園部城の櫓の建設は許されず、陣屋にとどまった。江戸時代末期の1864年の池田屋事件など、京都での武力衝突を理由に小出家は江戸幕府に築城を申請したが認められなかった。交渉を続けて67年に内諾を得たというが、幕府が政権を返上する大政奉還で正式な許可が下りなかった。
新政府に小出家は「帝都御守衛」のためと、築城を申請し、明治元年にあたる68年1月に認められた。櫓門3カ所、櫓5カ所がつくられ、園部高裏の小麦山には三層の櫓の絵図が残る。南丹市立文化博物館の犬持雅哉学芸員(44)は「明治天皇をかくまうためとまでは記録されていない。幕末から申請しており、築城は小出家の悲願。いち早く新政府に恭順したことが影響したのでは」と推測する。
「戦いのためと思えない」
園部高に頼んで櫓門の内部を見せてもらった。空間ははりに頭をぶつけてしまうほど低く、鉄砲を撃つにはスペースが狭い。巽櫓の出窓は十分張り出しておらず、石を落とせそうもない。三木孝史副校長(51)は「戦いのための城とは思えない」と話す。「社寺建築の趣」と表現する専門家もいるほどだ。城は72年には建物や敷地が官有地や民間に払い下げられ、多くの建物が解体された。
天皇をかくまうためという説はどこから生じたのか。犬持さんは1925(大正14)年に府が発行した史跡調査報告書の記述を紹介する。築城理由について、小出家は御所の警護を担当しており、天皇に万一の事態が起こった時に京都から近い園部城に迎えることを期したと伝わると記されている。犬持さんは「文献に記されているものでは最も古く、説の始まりではないか。府が調べた当時から話は出ていたようだが本当のことは分からない」。
藩主子孫、宮中に仕え
ただ、天皇と小出家の関わりは明治時代以後も続く。最後の藩主英尚の次男英経氏は昭和天皇の侍従を務め、「昭和天皇実録」に登場する。明治天皇例祭の45(昭和20)年7月30日には空襲警報が出たため、昭和天皇に代わって英経氏が代拝を命じられている。終戦後には三種の神器の一つで名古屋市の熱田神宮に保管されている神剣を疎開する祭典に派遣されている。
13代当主の英忠氏は宮中祭事をつかさどる掌典長を務め、93(平成5)年6月の天皇・皇后両陛下の結婚の儀に臨んだ。郷土史を研究する南丹市歴史探勝会の小畠寛代表(81)は「英忠さんの奥さんは天皇家と血縁がある。天皇家との関わりや園部の京都からの距離を考えると、天皇をおかくまいするにはいい場所で、事実だろう」と説明する。
南丹市や商工観光団体は5月に園部城祭りを催し、小出家が関係する出石藩にちなんだそばの早食い競争で盛り上がった。園部藩や小出氏に関する展覧会も開かれる予定だ。謎の真相を含め、園部城がさらに市民の誇りとなることを期待したい。