地下鉄サリン事件で見た「化学兵器」の恐ろしさ…治療した医師の思い

町医者の医療・健康コラム

谷光 利昭 谷光 利昭
 不安、健康被害今も色濃く…95年3月20日午前、地下鉄日比谷線築地駅前の路上で手当てを受ける地下鉄サリン事件の被害者(提供・共同通信社)
 不安、健康被害今も色濃く…95年3月20日午前、地下鉄日比谷線築地駅前の路上で手当てを受ける地下鉄サリン事件の被害者(提供・共同通信社)

 1995年3月20日。阪神・淡路大震災から2カ月ほど経っていました。当時、20代後半の私は東京・秋葉原にある三井記念病院に勤務していました。

 「内科の先生は至急、救急外来に集まってください!」

 診察、手術が始まる午前9時前の病院内で、全館放送がけたたましく鳴り響きました。しばらくすると「麻酔科の先生は至急救急外来に集まって下さい!」と再び放送が。尋常ではない事態が救急外来で起きていたことはすぐに想像できました。外科医だった我々も呼ばれるのは時間の問題だろうと思っていた矢先に「外科の先生は至急救急外来に集まってください!」と全館コールが掛かかりました。

 7階にある医局から一気に階段を下り、救急外来に我先にと外科医の一団も駆け込みました。1階の救急外来、そして待合室は、すさまじい状態でした。病院という場所で遭遇したことがなかった、もちろん今でも経験したことのない凄惨な状況だった。原因不明の毒物か、ガスか、薬物か…何かわからないものに苦しむ患者さんでフロアは埋まっていました。映画などで見る“戦場”のような光景でした。

 気分が不快でうずくまっている人、毛布にくるまっている人、嘔吐している人、意識がない人…重症度は様々でした。ただ、あまりにも受けた衝撃が強く、慌ただしかったせいか、細かい様子までは思い出すことはできません。

 これは、日本の歴史にも残る痛ましい出来事、地下鉄サリン事件の日のことです。この事件のとき、私が当時いた病院に多くの被害者が運ばれてきました。医師、看護師、事務員、病院全体が一丸となり、原因不明の中毒で苦しむ患者さんを救おうと治療に臨みました。

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