2017年、福岡県内の小児歯科医院で当時2歳の女児が虫歯治療後に容体が急変し亡くなりました。先月25日に福岡地裁は歯科医院の元院長に執行猶予付きの有罪判決を言い渡しました。「虫歯治療のため局所麻酔をした女児の容体が急変したのにもかかわらず、救急搬送などの必要な措置を怠り、麻酔薬リドカインの急性中毒による低酸素脳症で死亡させた」(判決より)。虫歯治療を受けた子どもがなぜ命を落とさなければならなかったのでしょうか。歯科医のパンヂー陳こと陳明裕氏に聞いてみました。(聞き手・山本 智行)
−−ニュースを見て驚きました。虫歯治療で女の子が命を落としていたなんて。歯科医の立場で、判決をどう受け止めていらっしゃいますか?
パンヂー陳(以下、陳):2歳の女の子にキシロカインという局所麻酔薬を注射して虫歯治療をしたら容体が急変。にもかかわらず救急搬送など必要な救命措置を怠り、2日後に急性リドカイン中毒による低酸素脳症で亡くなってしまった件ですね。私もニュース報道の知識しかありませんので、詳しい背景も分かりませんから野次馬的推察ですけど、いろんな疑問が湧いてきます。
−−どんな疑問でしょうか?
まず、そもそも論として、2歳の女の子に麻酔を打つほどの虫歯治療をするか、です。その先生のバックグラウンドが分かりませんが、2歳の女の子の場合、泣きわめいたり、暴れたりすることも少なくないですし、拘束具や笑気などの鎮静法なしでは本格的な治療は難しいので、簡単な処置に留める場合も多いです。被告の先生は56歳ということですから、おそらく30年くらいの臨床経験を積まれ、幼児の歯科治療にもある程度の自信をお持ちだったんだと推察されます。
−−2歳だと虫歯治療を基本しない、と?
陳:その子の成熟度や地域性にもよりますが、自分の所では無理に治療せず、小児歯科専門医院や大学病院などへ紹介する先生も少なくないと思います。次に急性リドカイン中毒についてですが、どこのメーカーのどの麻酔薬を使用していたかは分かりませんが、一般によく用いられている歯科用キシロカインカートリッジを用いていたとすると、製品1ミリリットル中にリドカイン塩酸塩20ミリグラムが含まれています。
うちで使っているキシロカインの薬剤添付文書には「浸潤麻酔、または伝達麻酔には通常成人0.3~1.8ミリリットルを使用する。口腔外科領域の麻酔には3〜5ミリリットルを使用、10歳以下の小児では1ミリリットル以上投与が必要なことは稀である。小児最大投与量は7ミリグラム/キログラムを超えてはならない」となっています。裁判では「使用された麻酔薬の量では中毒は起こらないと考えられている」とのことですので、この範囲内だったと推察されます。
−−つまり、適性だったと?
患者さんの年齢や体格、基礎疾患の有無等の条件で最大何本まで使っても大丈夫かは異なります。実際、健康な大人の全身麻酔下の口腔外科の手術では7、8本使っても安全に手術を終えています。この事件では、死因は解剖で急性リドカイン中毒とハッキリしていますので、一般に安全な量であろうと起こったことに変わりはありません。歯科の局所麻酔の場合、例え、同じ量でも注射の注入速度でもその薬効の現れ方は異なりますしね。
−−そうなんですか?
陳:もっと言えば注射の痛さも注入速度で変わります。
−−じゃ、痛くない注射もできるんですか?
陳:はい。痛くないように注射しようと思えば、解剖学的に自由神経終末となる痛点の少ない部位を選んで、表面麻酔を塗ってから、できるだけ細い針で、あらかじめ体温くらいに温めておいた麻酔薬をゆっくりと注入すれば、ほとんど注射は痛くなくできます。
リドカイン中毒の話に戻りますが、どのくらいの量で中毒を起こすかは実験の仕方や、どんな症状が出たら中毒とするかの定義によっても異なるので難しいのですが、例えば、静脈に直接0.5ミリグラム/キログラム/分の速度でキシロカインを注射した実験では1.4ミリグラム/キログラムを超えると痙攣が起こるという報告があります。
−−つまりは?
死亡した女の子の年齢、2歳児の平均体重が11キロとして15.4ミリグラムですので、もし、静脈に直接この速度で注射したならば、わずか0.77ミリリットルでも中毒を起こすことになります。なので伝達麻酔で誤って静脈内に注入していたとしたらあり得なくもないですが、普通に歯肉に浸潤麻酔をしていたならば歯科用キシロカインカートリッジには、血管収縮剤のアドレナリンが0.0125ミリグラム/ミリリットル含まれており、これにより麻酔持続時間が延長し、吸収を遅らせる効果があるので、毒性は減じます。
歯科医としての見解は?
−−専門的すぎてよく分かりませんが、その女児の父親が見ても容体が悪いのに、その歯医者さんは、どうして救急車を呼ばなかったんですかね?
陳:それは、おそらくさっき述べたような理由からリドカイン中毒の可能性は低いので、所謂、「デンタルショック」やと思いはったんじゃないでしょうか?
−−デンタルショックって何ですか?
陳:「デンタルショック」は「神経性ショック」とか「疼痛性ショック」などとも呼ばれるもので徐脈や血圧低下、顔面蒼白、気分不良、吐き気、冷汗などの症状が出ます。歯科治療中に起きる全身性の偶発症の中で最も発生頻度が高いとされ、一説には8割以上にものぼるとも言われています。
−−そのショックは何で起こるんですか?
陳:いいえ、ショックと呼ばれていますが、医学的な意味のショックではありません。歯科治療への不安や緊張、恐怖などの精神的ストレスと、実際の治療時の痛みによる肉体的ストレスで、交感神経が緊張するんですが、からだがこれを正常に戻すために副交感神経の支配が強くなることが原因で起こる症状です。特に口腔への痛みや刺激は、この領域の副交感神経である迷走神経を直接刺激したりして過度な血圧低下や徐脈を引き起こすことがあります。
時には意識を失うこともありますが、ほとんどの場合、一過性で、水平に寝かせたり、両下肢を挙上して、所謂、ショック体位をとらせておくと10分程度で回復することが多いです。
−−アレルギー反応の発生頻度は?
陳:局所麻酔薬アレルギーは本当のショックを起こす可能性もあり、特にⅠ型アレルギーの場合は確かに迅速な対応が必要となりますね。でも、局所麻酔薬アレルギーの頻度はかなり低いです。リドカインによるアレルギー反応発生頻度は軽度のものを含めても0.00007%といわれいています。
アレルゲンとしては製剤中に含まれる防腐剤のパラベンなどの方がよっぽど頻度は高いと思われます。いずれにしても、アレルギー反応の場合、まず皮膚症状として紅斑や掻痒感、蕁麻疹や、顔面や粘膜の浮腫などが現れたりしますので鑑別は可能かと思われす。
−−検察側は「歯科医として基本的な注意義務を怠った」と主張して、弁護側は「麻酔薬の使用量や使用法に問題はないため中毒は起こり得ず、被告は父親の訴えを受けて女児の脈を取るなどしたが死亡は予見不可能で防げなかった」と無罪を主張していましたが、陳さんの歯科医としての見解は結局、どうなんですか?
陳:基本は福岡地裁と同じです。裁判長は「使用された麻酔薬の量では中毒は起こらないと考えられている点や子供が歯科治療後に疲れて眠ってしまうこともあるとして、被告が判断を誤りやすい状況にあったことも考慮すべき事情として挙げた上で、父親が女児の異変を再三訴えたにもかかわらず、自らの技量を過信してパルスオキシメーターなどの機器も使わず、危険を疑うべき事情を見落とした。異変を察知して救命措置をすれば死亡は回避できた。2歳児の死の痛ましさは、言葉に尽くしがたい、と述べた」と報道されています。
−−本当に、その通りです。
陳:キシロカイン中毒の可能性は低いとはいえ、実際、前述の薬剤添付文書にも、小児等への投与で「小児等に対する安全性は確立していない」となっている上、重要な基本的注意として、まず最初に「まれにショックあるいは中毒症状を起こすことがあるので本剤の投与に際しては十分な問診により、患者の全身状態を把握するとともに異常が認められた場合に直ちに救急処置のとれるよう常時準備をしておくこと」となっていますから。自分の手に負えないと判断したら、速やかに救急車を呼ぶなりするべきです。
2歳といえば、かわいい盛りです。この件に関して言えば救えたはずの命ですので、2度とこんな痛ましい事故は起こってほしくないです。