『家康はどこに居たのか』
こう銘打った論考を、府立京都学・歴彩館の若林正博さんが2023年3月に発表した。その結論に、京都・伏見生まれの伏見研究者、若林さんは「思った通り」とニンマリ。家康は後半生を伏見で最も長く過ごしていたことが、文献などを通じて示せたからだ。近接の京都に二条城を新築しながら、あえて避けたようにもみえる。徳川家康は京都嫌いだったのか?
家康は1600年に関ケ原の戦いに勝ち、03年に将軍に就いて、豊臣秀吉亡き後の「天下人」の立場を確かにする。ただし、全国を見回すと、豊臣を継ぐ幼少の秀頼が大坂城で健在で、豊臣恩顧の大名が西国にひしめいていた。彼らは家康の関ケ原勝利に貢献し、恩賞として領地を与えられたものの、福島正則をはじめ、元々は秀吉に取り立てられた大名も多かった。
当世最大の実力者になっていた家康だが、大坂、西国、さらには京都の朝廷も抑えるため、上方と徳川本拠・江戸の2拠点生活を送らざるを得なかった。この情勢下において、新築されたのが、京の二条城だった。
それなのに、この城に寄り付こうとしない。どこにいたのかといえば、伏見城。「秀吉の城」のイメージがあるが、関ケ原前哨戦で焼失したのを再建し、上方の居所とした。
実際、家康はどのぐらい伏見にいたのか。
若林さんの論考によると、関東への国替え(1590年)から死去(1616年)までの計9670日のうち、4分の1余りの2587日を伏見で過ごした。駿府の2394日、江戸の1799日と続き、京都は4番目の732日と1割に満たないという。京都の歴史家らがまとめた資料『織豊期主要人物居所集成』をもとに、当時の日記などをめくり、日数を割り出した。
天下人と京都の関わりは、秀吉が関白として聚楽第に住み、都市を再開発するなど最も深い一方、織田信長はほぼ滞在しようとしなかった。「信長ほど極端ではないが、家康のスタンスも近い」(若林さん)。二条城は伏見などから出向いた際の宿泊先という扱いだった。
なぜ、伏見を拠点にしたのか。
背景には、秀吉のくびきがあった。先行研究によると、晩年の秀吉は伏見城で政務を執り、この地を大名と妻子を集めた「武家の都」とした。豊臣本拠の大坂、朝廷の京都とともに首都機能を分有し、政権を運営したという。そして、自らの死に際して、政権を支える五大老筆頭の家康をここに置いた。
「当時、全国を統治する行政機構は伏見にあった。二条城にいても、家康は朝廷参内などの儀礼ぐらいしかやることがない」(若林さん)。要塞(ようさい)としての城構えも、軍の駐屯地としても、武家の都の方がより良いと思ったのかもしれない。
かくして家康は天下の政務を伏見でみた。伏見城を再建し、駿府へ本拠を移す前までの1601~06年にフォーカスすると、滞在日数は6割近くになる。その間、国内初の「銀座」を設け、木製活字の書物も出版させ、経済や文教の政策にも着手した。「伏見幕府」。黎明(れいめい)の徳川政権をこう呼ぶべきとの見方がある。