「徳川事故調」の報告書-。新著「家康の誤算」について、国際日本文化研究センター教授の磯田道史さんはエッセンスをこう言い表した。「江戸幕府の永続に寄与したかどうか」を物差しに、徳川家康がつくり、260年にわたった安定政権が崩壊してゆく過程で表れる事象を取り上げる。史実の羅列が中心で、評価も避けがちな近年の歴史書とは一線を画し、「How(どのように)」にとどまらず、「Why(なぜ)」と「If(もし)」を問う。
例えば、幕末。なぜ、ペリー来航(1853年)を契機にした風雲急に対応できなかったのか。
まずは200年以上続いた安定的な政権の礎でもあった世襲。何事も先例踏襲につながり、政治都市となった京都へ、外様大名が大軍勢を率いて上り、政局を動かしてゆくのに対応できなかった。半面、海外の脅威が迫る中、老中の阿部正弘は先例を破り、朝廷や外様大名に意見を求めたが、かえって幕府の命脈を縮めたとみる。
「変化を嫌ったことも、変化がもたらす課題に対応できなかったのもだめだった。もし、家康がいたら、『それはだめだ』とささやいたかも知れません」
家康らが安定政権のために築いた仕組みは、城や大船の建造禁止、将軍や大御所を頂点とした強固な意思決定機関などがあったが、徐々に、あるいは急速に崩壊する。その一つとなる大名家を取りつぶす改易制度も、17世紀後半から緩和されていた。厳格な運用を続けていれば、「薩摩藩は消滅し、幕末に幕府を倒す主勢力にはなり得なかった」と喝破する。
評価のまなざしは、徳川が後世に残した「遺産」にもおよぶ。
太平の世では、家や共同体の永続のため「和」を保つことが良しとされ、「正直」を美徳とする風潮を生んだ。今も、日本が「財布を落としても返ってくる国」であることに引き継がれている。
かたや、徳川が武士層に植え付けた「忠義」の概念はどうか。近代に入ると国民と天皇の関係に置き換わり、家康も予期せぬ形で暴走。戦時下で「お国のために死ぬ」を是とする悲惨な社会につながったとみる。
新著で「こうしていれば…」と史実の論評もいとわないのは、「本屋に並ぶ歴史書は歴史の『How』ばかりで、評価を避けている。歴史の楽しみの一つなのに」という強い自戒の思いからだ。「論評があってこそ社会の足腰を強くできる。言いたいことは遠慮なく言うべきで、忖度(そんたく)社会には迎合しない、その心構えを読者には感じ取ってほしいですね」。「家康の誤算」はPHP研究所刊、990円。