「ねねの寺」に「ねね」は住んでいなかった? 秀吉没後、豊臣家存続に奔走、静かに暮らす暇なかったのかも

京都新聞社 京都新聞社

 北政所は高台寺に住んでいなかった-。豊臣秀吉の正室・北政所ねねは夫を亡くした後は「高台院」と呼ばれ、自らが創建した京の寺院で静かな余生を過ごした、と思われてきた。しかし、実際には別のところに長く暮らし、亡夫を弔うのみの隠棲(いんせい)生活を送ったわけでもなかったという。

 高台寺は1605年、北政所が秀吉の菩提(ぼだい)を弔うために創建した。代表的な歴史辞典『国史大辞典』は「ここを終焉(しゅうえん)の地として禅床三昧(ざんまい)の日々」と記し、現地にある市の駒札も余生を送ったとする。

 だが、この説に対して歴史家たちは否定的だ。『大政所と北政所』の著書がある奈良大の河内将芳教授が「住んでいない」と言い切る。旧来の説の根拠として、秀吉側室で秀頼母の淀殿との対立や、政治からの逃避が挙げられるが、これらは過去の考察やイメージに基づくものという。

 むしろ、大坂から京へ意図して移り、積極的に動く姿があった。「豊臣家をいかに存続させるか」(河内さん)。秀頼が天下人や関白になれなくとも、公家や大名家として残る道を探ったのかもしれない。

 その際に重要視したのが、京の公家や寺社との交流だった。公家や僧侶の日記には「蜜柑(みかん)」「瓜(うり)」「茄子(なす)」「芍薬(しゃくやく)」といった頻繁な贈答のやりとりが記され、日常的に往来したさまが分かる。

 このための居所こそ、秀吉が生涯最後に築いた城郭「京都新城」だった。内裏の南東にあり、現在の京都仙洞御所一帯を占めた。北政所は1599年、大坂城からここへ移住し、1624年に没するまで過ごしたという。至近の天皇家や公家と交流を重ねつつ、秀吉をまつる豊国神社や高台寺へ参る日々だったようだ。

 一方、このルーティンから外れた動きに及ぶと、「政治家」の一面が鮮明になる。1607年の大坂行きは、秀頼らによる北野天満宮の再建を導き、北政所の肝いりで朝廷から大坂へ使者が派遣された。徳川の世が確かになる中、1611年、秀頼と徳川家康が対面する二条城会見に同席し、両家の融和を図ろうとしている。

 京と大坂をつなぎ、大坂と江戸の緊張を和らげようとした北政所。朝廷や寺社にとどまらず、天下人たる豊臣・徳川の双方ともつながった政治的ハブとして機能したという。しかし、1614~15年の大坂の陣で豊臣が滅びると、その特別な立ち位置は失われ、影響力も薄らいでゆく。自らも齢を重ね、最晩年は高台寺で過ごす時間が長くなっていたかもしれない。

 京都新城説が示す北政所の居所について、高台寺はどう考えているか。同寺常任教師の後藤典生さんは、寺に創建時から住み続けたとの従来説に重心を置いている。

 「歴史学では文献の発見や解釈で考察が変わり、元通りになることがある。伝承とはいえ、ねねさんは尾張出身で言葉のなまりがあり、御所とは言葉遣いが違って嫌気が差し、高台寺へ早くに移ったという話もある。住まいは一つではなく、京都新城と双方を用いたかもしれない」

 京都新城は北政所の没後、上皇の仙洞御所に建て替えられ、豊臣期の痕跡は消し去られてしまう。一方、仮に住んでいなくとも、高台寺が豊臣期の遺産や気風を伝える寺院である点に変わりない。

 境内では「霊屋(おたまや)」に北政所が葬られ、茶室「傘亭(かさてい)」「時雨亭(しぐれてい)」などは、数少ない秀吉期の伏見城遺構とされる。江戸時代に焼失した「小方丈」もその一つといい、2024年の北政所没後400年遠忌へ再建が進む。

 後藤さんはいう。

 「(小方丈は)元々は朝鮮出兵した大名をねぎらったり、宴会をしたりした場所と聞いている。国際会議や文化行事向けに開放し、ねねさんも親しんだ桃山文化に触れつつ、人が集い交流する場にしたい」

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