サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会の1次リーグで強豪ドイツを破った日本代表を指揮する森保一監督は現役時代、サンフレッチェ広島の“レジェンド”だったが、同じ紫を基調としたクラブカラーの京都パープルサンガ(現京都サンガFC)でも1年間、主将としてプレーした。くしくも日本が初めてワールドカップ(W杯)に出場した1998年。チームメートだったサンガ普及部長の本田将也(48)は「揺るぎないチームの柱だった」と振り返る。
当時のサンガは、マツダ(現広島)や「ドーハの悲劇」時の日本代表監督を務めたオフトが指揮。だが成績不振にあえぎ、シーズン途中で辞任した。「それでもチームが崩壊した印象がないのは、ポイチさん(=森保)のおかげだった」と本田は記憶をたどる。
一見穏やかな森保は試合では一転、チームの弱気を察すれば、ピッチ外でも仲間を叱咤(しった)激励した。「ボランチで攻守の流れを読むのがポイチさんの特徴だけど、ピッチ外でも目に見えないものを読む力にたけていた。やんちゃな選手の手綱もうまく握っていた」。第1ステージ15位に沈んだチームは、第2ステージでは勝ち越して11位に浮上。頼れるリーダー抜きには成し得なかった。
グラウンドを離れても兄貴分だった。「僕と吉田達磨、川勝博康(KNJフットボールクラブ代表)の3人はかわいがってもらい、よくご飯に連れて行ってもらった」と懐かしむ。サンガで育まれた関係は今日まで続く。
10月、視察で京都府亀岡市のサンガスタジアム京セラを訪れた森保と再会した。重責を思い、「大変ですね」と声を掛けると、「全然大変じゃないよ」。称賛も批判も、日本代表を取り巻く全てを受け入れて進む覚悟を垣間見た。
歓喜の寸前でW杯を逃した「ドーハの悲劇」。あの瞬間、ピッチに立っていた森保が、同じカタールで日本代表の指揮をとり、サッカー史に残る大金星を挙げた。「日の丸を背負う重みを誰より分かっているのはポイチさん。いろいろな人の思いを背負って戦うはず」と本田。過去から現在へつながる先に森保ジャパンがどんな物語を紡ぐのか。「絶対に勝つための策を用意しているはず。結末が楽しみ」。かつて共に汗を流した京都から見守る。=敬称略