「源平合戦」は源氏と平氏の戦いではなかった!? 実は平氏一族の「骨肉争い」…大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で脚光

森岡 浩 森岡 浩

今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の前半は源平合戦である。源平合戦に関する一般的な理解は、藤原氏にかわって政権を握った平氏政権の横暴が目立つため、源頼朝を中心とした源氏の一族が平家打倒を目指して挙兵し、壇ノ浦で平家を滅ぼして鎌倉幕府を樹立した戦い、といったところだろうか。しかし両軍に加わった武将たちの出自をみると、源氏軍の大半は平氏の出身であった。平氏と一口にいってもいくつかの流れがあり、実際には平氏同士の戦いであった。

さて、ドラマは頼朝が流されていた伊豆国に始まる。流人生活を送っていた頼朝は、北条時政の援助を受けて治承4年(1180)に挙兵、平家方の目代山木兼隆を討ったことで源平合戦の幕が切って落とされた。山木兼隆は桓武平氏の一族で、平家打倒の幕開けに血祭りにあげられたものだ。

そもそも、当時の頼朝は一介の流人にすぎず、配下の武士などはいなかった。山木氏を討った最初の戦いでその中心勢力となったのは、妻政子の実家である北条氏であった。北条氏は源氏ではなく平氏の一族。しかも、桓武平氏の嫡流である平国香の子孫で、平清盛とも同じ一族にあたる。

北条氏は時政以前はよくわからないが、田方郡韮山町にある北条という地名がルーツで、地方官としてかなりの実力を持っていたらしい。しかし、目代として平家政権から伊豆に派遣された平兼隆が韮山町内の山木に居を構えて山木氏と名乗って土着したことから両者が対立。守勢にまわっていた北条氏としては、山木氏を討つことで逆転を狙ったともいえる。

頼朝が山木兼隆を討つと、相模国から土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実らが馳せ参じてきた。この3人は、いずれも桓武平氏出身の武将である。

頼朝はこれらの武将と石橋山で平家方と戦ったが敗北、源氏方について三浦半島に勢力を持っていた三浦義明も居城衣笠城で奮戦したが敗れた。この三浦氏もまた桓武平氏の一族で、平国香の弟良茂の子孫にあたる。

真鶴半島から舟で脱出した頼朝一行は、三浦一族と合流して安房国に上陸した。ここから房総半島を北上した頼朝を迎えたのが、下総・上総の大勢力であった千葉氏と上総氏だった。千葉氏と上総氏は同族で、ともに平国香の弟良文の子孫である。

この両家の大軍を加えた頼朝は勢力を回復、以後、奥州からかけつけた異母弟の源義経をはじめ、源氏の白旗の元に各地から武将が集結した。こうして頼朝軍は大勢力となったが、その配下の多くは坂東平氏と呼ばれた桓武平氏の一族で、平家追討軍の大将をつとめた頼朝の弟の義経や範頼は、後に頼朝によって粛清されてしまう。

さらに幕府樹立後に頼朝の側近として政権内で大きな力持った梶原景時や畠山重忠も坂東平氏の一族であった。

平清盛は桓武平氏の中でも、代々朝廷に仕えていた「伊勢平氏」という一族で、朝廷に仕えるうちに貴族化し「平家」と呼ばれていた。一方、同じ桓武平氏でも平国香の弟の子孫達は関東平野各地に土着し、武士として「坂東平氏」という大きな勢力を築いていた。そして、彼らには武士が朝廷に入って貴族化するのではなく、武士自ら政治を掌握したいという願望があった。

つまり、「源平合戦」とは「源氏」と「平家」の政権争いなどではなく、「朝廷に入って貴族化した伊勢平氏」対「関東で武士であり続ける坂東平氏」という、平氏内の主流争いであった。そして、平家に代わって源氏が政権を樹立したのではなく、坂東平氏が武士による政権を打ち立てたというのが実像である。

実際、源氏の血統はわずかに3代30年足らずで滅び、以後代々鎌倉幕府執権として政権を運営していたのは、桓武平氏の北条氏であった。

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