「縁」がつなぐ、懐かしの「野球カステラ」 瓦せんべいの老舗で2児のママ修行中

山脇 未菜美 山脇 未菜美

 阪急春日野道駅(兵庫県神戸市中央区)から北東へ100メートル。大通りから一本中の小道へ入ると、甘い香りがふわりと漂ってきた。神戸のお土産で知られる「瓦せんべい」の老舗「手焼き煎餅 おおたに」だ。築70年近くになる建物は、色あせた緑色のテントが目を引くレトロなたたずまい。引き戸を引くと、商品棚の奥の2畳ほどの空間で、師匠の大谷芳弘さん(73)に見守られながら一人の女性が黙々と焼き型と格闘していた。焼いているのは、店のもう一つの名物「野球カステラ」。女性は思い出の味を学ぶため今春に入門した。家に帰れば2人の子どもを育てるママでもある。不思議な縁でつながった2人の出会いとは―。

 女性は、和田絵三子さん(42)=同市兵庫区。地下鉄湊川駅近くで生まれ育った。幼い頃に楽しみにしていたのが、近所に住むおばあちゃんとの買い物だった。目当ては神戸名物の「野球カステラ」。グローブやバット、ボール、キャッチャーマスク、帽子などをかたどったお菓子で、1世紀以上の歴史を持つとされる。和田さんはおばあちゃんと商店街に行ってはカステラを買ってもらった。大人になってからも、ほんのり甘い素朴な味はずっと身近にあった。

 結婚してママになり、共働きをしていて感じることがあった。自身の父や祖父は自営業で、学校から家に帰ると誰かが「おかえり」と迎えてくれた。「今考えるとすごく温かかった。自分の子どもにもしてあげたいなって思ったんです」と和田さん。家で店をできないかと考えていた昨年末、姉の知り合いだった大谷さんが、あの「野球カステラ」を焼いていると聞いた。どうせやるなら、なじみあるお菓子を作ってみたい。今春、弟子入りを志願すると大谷さんはあっさり言った。「来週焼くからよかったらどうぞ」

母の居場所を守るために

 「おおたに」は1930年ごろに創業した。師匠の大谷さんが3代目として煎餅とカステラを焼き始めたのは、2018年に亡くなった母きよ子さん(享年94歳)の居場所を守るためだった。会社員をしていた約20年前、2代目の父が亡くなった。店を継ぐつもりはなく、作り方も教わっていない。店は畳むつもりだった。でも、きよ子さんは「離れへん」と泣いて嫌がった。「じゃあ俺が焼くわ」。大谷さんは独学で焼き方を覚え、仕事終わりに煎餅を作って昼間はきよ子さんが店番をした。

 弟子を受け入れたのは3年前だ。ある日、焼き方を教わりたいという女性がやってきた。鉄製の焼き型は重いもので7キロあり、真夏は暑さに耐えながら焼くこともある。難しそうだったら辞めるだろう。来るもの拒まずの気持ちで引き受けた。まさか1週間後、きよ子さんが体調を崩して亡くなるとは思いもせずに。

 「辞めるつもりやったのにな。弟子作ってしまったから辞めるに辞められなくなったんやわ」と大谷さん。その後、女性の弟子を取っているという口コミが広がり、別の女性が訪れ、ひとり、またひとりと弟子がつながっていった。今年5月、和田さんは4人目の弟子となった。

 材料はシンプルでも「奥深い世界」

 野球カステラの材料は小麦粉、砂糖、卵、牛乳、はちみつとシンプルだが、一人前に焼けるには数年は掛かる「奥深い世界」という。和田さんも「最初は真っ黒焦げでした」と苦笑いだ。

 修行は週1回。ママチャリで3歳の娘と1歳の息子を保育園に送ってから、その足で40分かけて店へ。コンロの上に横一列に並べた4本の焼き型をくるくる回しながら表裏の温度が均等になるように熱した後、油を塗って生地を流し入れる。その後は30秒ごとに体感で焼き型をひっくり返し、完成すればまた次の生地を入れていく。これを約2時間繰り返す。10秒でも焼く時間が違えば表と裏の色合いが違う仕上がりになったり、片方だけ生焼けになったりする。最近は焼くリズムを掴んできたが、まだ焼き型を温める作業が課題という。

 修行を終えるとママの顔に。子どもを迎えに行って買い物し、おやつの野球カステラを食べさせながらご飯の準備や風呂、寝かしつけに追われる。

 10月中旬、店にはいつものようにカステラを焼き上げた後、袋詰めする2人の姿があった。この日は成功したカステラが多く、師匠の大谷さんの褒め言葉に和田さんの顔も緩む。「まあ、一つできるようになったら煎餅もすぐできるようになるわ。俺も高齢やし、いつポッと逝くか分からへんからなあ」と冗談をかます大谷さん。「まだまだ。私が一人前になるまで辞めんとってくださいよ」と和田さんが返すと、大谷さんは少し照れながらうなずいた。

店は月曜を除く10時~17時に営業。電話:090-8380-7844

おすすめニュース

気になるキーワード

新着ニュース