中高年の働き方が注目される中、56歳で日本茶業界へ進出した元プロ野球選手がいる。投手として横浜(現DeNA)、ロッテで活躍し、その後コーチ、チーフスカウトなどを歴任した堀井恒雄さん(62)がその人。現在は横浜市で宇治茶専門店「又兵衛」を家族で営んでいるが、現役引退時には、いまは亡きあの人の強烈なひと言があった。
小さい頃からジュースを飲まずお茶ばかり
宇治茶専門店「又兵衛」は「本物の宇治茶を横浜から世界に広めたい」と横浜市保土ケ谷区に2014年にオープン。今年で7年目になる。元プロ野球選手がなぜ、日本茶の店主なのかと疑問に思ったが、堀井さんの実家は1887年から京都府城陽市で代々続く宇治茶の栽培農家。オギャーと産まれたときからかはともかく「小さい頃からジュースは飲んだことがありませんでした。ずっとお茶を飲んできたので利き茶には自信がありました」という。
店は京都・八坂神社の分霊、橘樹神社前という縁起がいい場所にある。「又兵衛」は、茶の栽培を始めた初代からとった。特徴は茶園、製茶を自前で一貫して行っているところ。繁忙期には城陽市に1カ月以上滞在するという。私が訪れたときは茶摘みを終え、ちょうど帰宅したところだった。茶畑は八反(2400坪)と決して広くはないそうだが、場所は木津川近く。「河川敷の茶園は京都独特なものです。細かくて少し粘りのある土が風味豊かな宇治茶を育てるのです」
店内は豊かな香りに包まれ、商品はどれもこれもおしゃれ。営業、接客、ウェブの運営は妻の初美さん、パッケージなどのデザインは美術系の学校を出た娘の美花さんが担当しており、チームとしてうまく連携プレーができているのも微笑ましい。2017年には美花さんの勧めで「世界緑茶コンテスト」に応募。日本をはじめ、中国、韓国、トルコから出品された69点の中から金賞に輝くなど数々の賞を受賞している。
400勝投手から「引退せい!」
そんな堀井さんは京都・大谷高から大商大を経て1980年にドラフト2位で横浜へ。サイドスローに変えた1985年から頭角を現し、6月の阪神戦でプロ初勝利を挙げたが、選手人生は短かった。1987年オフ、ロッテへトレード。肘、ひざの故障を抱えながら臨んだ1990年5月の西武戦で予期せぬ出来事が起こった。
常勝レオ軍団の猛打を浴び、最後はのちに横浜でコーチとして同僚となる現西武監督の辻発彦にトドメを刺されたと振り返る。無残なKO。試合後に”カネやん”こと金田正一監督から監督室に呼び出された。
「引退せい!」
いきなり待っていたのは痛烈なひと言。続けて「コーチになれ!」とも迫られた。
「私はまだ続けたいとも言えず“考える時間をください”と言えただけ。なんと言っても開幕してまだ1カ月、シーズンは始まったばかりですよ」
自分で引退を決められる選手はほんのひと握りとはいえ、当時は金田監督を恨んだという。「若かったからね。結局、あのひと言で引退が決まりましたが、冷静に考えたらコーチ職なんて、なかなか言ってもらえませんからね」
コーチとして98年横浜の日本一に貢献
理不尽とも思える引退勧告はカネやんの親心だったか。生前の金田監督は「何事にも耐えて黙々と努力する姿が脳裏に残っていたからだ」と後日談として残している。プロ9年で15勝17敗2セーブ。その後はロッテ、横浜でコーチを経験し、1998年には1軍ブルペンコーチとして横浜の日本一に加わった。
「特に2軍コーチ時代はいわゆる、教えるのではなく1軍に早く上がるように“手助け”をすることに生き甲斐を感じていました。コーチに向いていたかもしれませんね」
2005年には1年間、米独立リーグのジャパン・サムライ・ベアーズの投手コーチへ。このときの経験が人生の幅を広げた。「ミールマネーだけで給料なし。90日間で100試合というハードさでしたが、そのとき知り合った連中といまでも付き合いがある。なかにはドミニカで監督している人もいる。活躍を聞くと嬉しいです」
帰国後は豊富な経験を買われ、横浜のスカウトに就任。チーフスカウトを経て、DeNAの編成部専任部長の要職を務めた。その一方で半ば使命感のように「いつかはお茶に携わる仕事を」と思い続けており、それがいま実った形だ。
「選手として指導を受け、その後は人を指導する側のコーチ、営業に似ているスカウト、経営に関連する編成部長と球界の中で様々な分野を経験することができた。いまの仕事の大半は親から受け継いだとはいえ、人の手助けをする精神は、伝統ある宇治茶を育てる経営学にいかせていると自負しています」
いまやすっかり茶葉店のご主人となった堀井さん。人生後半のマウンドはしばらく降りるつもりはない。
◆宇治茶専門店「又兵衛」 横浜市保土ヶ谷区天王町1-7-2、相鉄線の天王町駅下車、松原商店街に向かって徒歩3分。営業は10時~18時(不定休)、TEL045-453-8975