少し専門的なお話になりますが、『感染性心内膜炎』という病気があります。犬や人間でこの病気になることがわかっています。
この病気は一般的な病気とは異なり、体のどこかに細菌感染による炎症があるときに、この病気にかかる可能性がでてきます。
例えば歯の根っこが膿んでいるときなどには、少なからずその細菌が血流にのって全身に流れていきます。流れていっても、健康な体であればその細菌が増えてしまうことはありません。しかし、血管のどこかに弱った個所や傷があると、細菌はそこに移り住んで増殖してしまうことがあります。
心臓は、血管が大きくなり特殊な構造になった臓器ですが、心臓には4つの部屋があり、それぞれの部屋にはドア(弁)があります。弁の近くでは血液がよどんでしまいがちで、その付近に傷があると細菌は取り付いて増殖することがあります。それが感染性心内膜炎という病気になります。
犬の感染性心内膜炎を診断するのは非常に難しく、病気がかなり進行しないと診断できないとされています。そして、診断したとしても救命するのはとても困難で、そのほとんどが亡くなってしまいます。私は数年前にこの病気にかかった犬に出会い、そして亡くなってしまいました。わすか1歳5カ月齢でした。
その犬はゴールデンレトリバー、出会ったときは生後4カ月齢の男の子で、Fちゃんと言いました。1カ月前に、ペットショップからあるご家庭の家族となりました。しかし、糖尿病と心臓病があることが発覚したために、その家庭が手放したということでした。紆余曲折があり、勤めている動物病院で引き取ることになりました。
Fちゃんの引き取りには、私も同行しました。そのときのことはよく覚えています。ゴールデンレトリバーの幼犬は、陽気でよく遊ぶイメージですが、Fちゃんはだるそうに静かに座っていました。目もうつろでかなり痩せて毛艶も悪く、血液検査もいろいろなところに異常がみられました。
動物病院に連れて帰り、さっそくインスリンによる糖尿病の治療を始めました。心臓病の方はそれほど重度のものではなく、定期的に検査をして経過を診ていくことになりました。
まもなく治療の甲斐あって血糖値が安定すると、Fちゃんはみるみる元気になり、食欲も非常に旺盛となり、ゴールデンレトリバーらしく成長していきました。生後7カ月齢のときには去勢手術もしました。しかし、遊びたい盛りの生後1歳までを、動物病院という制約のある場所で暮らしたために、遊び足りない感は否めずよく『ごんた(いたずらっこの関西弁)』をしました。
朝、動物看護師が犬の入院室のお掃除に入ると、Fちゃんのケージの中はしばしば大変なことになっていました。もちろん、Fちゃんも排泄物とともにぐちゃぐちゃでした。そうやってスタッフを困らせることが、Fちゃんのストレス解消だったようでした。
ある日、けいれん発作を起こしました。血糖値を測定したところ非常に低い値で、つまりインスリン注射が効きすぎたことによる低血糖で起こったけいれんでした。Fちゃんはこの頃より、インスリン注射をしても、ちょうど良い血糖値にすることが難しくなっていきました。インスリン注射の量を増やすとすぐに低血糖になり、減らすと血糖値が測定できないくらいに高くなることもありました。
このように、インスリン注射をしても血糖値が安定しない場合には、体のどこかに慢性炎症があったり、肝臓や甲状腺に問題がある可能性があります。ですからFちゃんも、それらの病気が隠れていないかの精密検査をしましたが、見つけ出すことはできませんでした。
そして、Fちゃんは下痢が始まりました。いつもの陽気さもありません。しかし食欲は旺盛で血液検査でも大きな異常はみつからず、心臓もエコー検査をしましたが、持病が悪化している様子もありませんでした。
なんだろう…Fちゃんの踏み込んだ検査と治療をもたもたしているうちに、突然と熱が出てきました。右の前肢と左の後肢を引きずり、私たちが触ると唸りました。Fちゃんは陽気なゴールデンレトリバーで、これまでは人に触られると大喜びでしたので、唸るなどよほど痛いに違いありません。そして、鼻血も出てきました。血液検査では血小板数が極端に減少していて、そこでやっと『もしかしたら…』と思い当たる病気に気づきました。
そして、感染性心内膜炎という病気であろうという診断をしました。Fちゃんは健康な心臓ではなかったために、心臓の弁に傷ができてしまったようでした。しかも、Fちゃんは糖尿病なので血液中には糖がたくさんあり、糖は細菌のごはんになるので細菌が元気に増えてしまうのです。ですから、Fちゃんの弁に細菌が大繁殖して、心臓が化膿してしまったのでした。
糖尿病の動物は感染性心内膜炎になりやすく、ひとたび感染性心内膜炎になると、糖尿病でない動物よりも治りが悪く、そのまま亡くなってしまう確率も高いのです。Fちゃんの場合、さらにこの病気であると診断したのが遅すぎました。これまでいろいろつらい思いをしてきたFちゃんを、さらにこんな状態にさせてしまって、とても申し訳なく思いました。診断した後は可能な限りの治療はしましたが、すでに手遅れでした。
翌日に食欲がなくなり、立てなくなりました。Fちゃんは人間が大好きな性分なので、私たちが入院ケージをのぞくと、けなげにも尻尾をパタパタさせてくれましたが、もはやその振りには力がなく、上下運動ではなく床の上の左右運動にしかなりませんでした。あんなに活発だったFちゃんが、今では一歩一歩が、剣山の上を歩くような痛みで、スタッフに両脇を持ってもらわないと歩けませんでした。
そして、Fちゃんは天国に行ってしまいました。
獣医師である私は、Fちゃんの死を無駄にしないためにできることをしました。つまり、Fちゃんの心臓と肺を取り出して、本当に何が起こっていたのかの『現場検証』をするために、病理検査(取り出した組織を専門医が顕微鏡で観察して、病気の確定診断をすること)を依頼したのです。
感染性心内膜炎という病気は、このように亡くなった後の病理検査でしか確定診断できないのです。私が次回、Fちゃんと同じ病気に出会ったときに、できるだけ早く診断して治療が始められるように…このFちゃんのことを調べて、記憶に焼き付けなければいけないと思ったのでした。
Fちゃんは、一般家庭で飼われたのですがその生活はわずか1カ月で終わり、その後は動物病院で制約のある生活を送り、1歳5カ月という若さで天国に行ってしまいました。とても悲しい運命を背負ったFちゃんの死を無駄にしたくない…。Fちゃんのことは生涯忘れられない犬となりました。
Fちゃんの病気の経過と詳細は学会誌に投稿し、掲載していただきました。Fちゃん、君の死は無駄にしないから!