アニメ「鬼滅の刃」が大人気です。人気に伴って主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)が炭焼きの家に生まれ、炭を売っていたことから、炭焼きへの関心が高まっているようです。しかし実際のところ、炭はどのように焼いて運ばれていたのでしょうか?京都に残る記録をもとにたどってみます。
京都で良質な炭として知られたのが「鞍馬炭」です。「鞍馬」は京都市北部にある地名で、牛若丸(源義経)の伝説や長い歴史を持つ鞍馬寺などでも知られます。江戸時代の京都のガイド本「都名所図会」は、鞍馬の名産品として炭を紹介しています。
鞍馬炭は、その名の通り、鞍馬の地で作られていたのでしょうか?そうではないようです。「鞍馬でも少量生産されていましたが、ほとんどはそのさらに北の地域で焼かれていました」。そう話すのは大阪府立大名誉教授の中村治さん(65)です。中村名誉教授は地元出身のライター豊嶋亜紀さん(50)らの協力を経て、鞍馬炭について記した「若狭街道と鞍馬」を今春出版しました。
中村名誉教授によると、「鞍馬炭」といいながら、実際にはさらに北方にある花背や百井、尾越といった地域で炭が焼かれていたといいます。ではなぜ、鞍馬の名前を冠したのでしょう?
「鞍馬より北の炭の生産地に住む人々にとって、消費地である京都は日帰りできる距離ではありません。そこで鞍馬で炭を下ろし、後は鞍馬の人々に販売を任せたわけです」と中村名誉教授。京都の町中の人々は、炭が実際に作られている場所や人々のことをあまり知らないままに炭を消費していたようです。
アニメ「鬼滅の刃」では炭治郎が炭を背負って運ぶシーンが出てきますが、実際にこうした運び方をしていたのでしょうか?
中村名誉教授は「京都の場合、(鬼滅の刃の時代設定である)大正のころまで人力と馬に頼っていました」と説明します。人は炭2俵(約30キロ)を担ぎ、馬は6俵(約90キロ)を運んだそうです。
運搬手段がトラックになったのは昭和初期ごろです。トラックは一度に大量の荷物を運ぶことができ重宝されましたが、日中戦争が本格化すると石油事情が悪化し、燃料不足から使えなくなりました。さらに馬すらも軍隊に徴用されたため、戦時中は人手で炭を運んでいたと言います。
中村さんが手掛けた本に、具体的な証言が取り上げられています。鞍馬出身で1924(大正13)年生まれの津田敏子さん(故人)は、小学校の高等科を卒業した1939(昭和14)から4年間、炭を運んでいたそうです。中村名誉教授は「かつては、北の地域から運ばれる炭を京都市内に売るだけで鞍馬の人々は十分な利益を得られました。しかし戦争が長引くと、鞍馬に運ばれた炭を京都の街に運ぶだけでは利が薄いため、自ら産地へ行く必要があったようです」といいます。本に掲載されている津田さんの1日の動きを見ると、10代の女性にしてはかなりハードな行程です。
津田さんが炭を運ぶ日は、鞍馬にある家を午前3時ごろに出発。懐中電灯を持ち、まずは峠越えです。直線距離で約7・5キロ先の産地、百井地域まで炭の買い付けに行かなければなりませんでした。そこから炭2俵(約30キロ)を背負い、再び峠越えです。
午前7時に鞍馬に戻り、2俵のうち1俵を母親に託した後、午前8時ごろの叡山電鉄に乗って京都市の街中にある出町柳駅へと向かいます。炭1俵を背負って2キロ余りを歩き、京阪電鉄の北端にあたる三条駅へ。そこから京阪で淀(京都市伏見区)や橋本(八幡市)に向かったり、さらに近鉄に乗り継いで京都府南部の大久保(宇治市)や寺田(城陽市)などに足を伸ばしたりして、各地で炭をコメやイモに交換していたといいます。
こうした労働は男性もしていたのでしょうか。中村名誉教授は「まきを運んで売る大原(京都市左京区)の女性が大原女としてよく知られていますが、同様に炭を運搬し売るのも女性の労働と考えられていたようです」と解説します。
戦後の1950年ごろ、鞍馬より北にある花背峠で撮影された写真が残っています。アニメ「鬼滅の刃」の冒頭と同じように、降り積もった雪の中を人々が炭を背に歩いているシーンです。後ろ姿をよく見ると、女性たちのように見えます。
もし竈門家が京都近郊にあった場合、炭治郎ではなく、その妹の禰豆子(ねずこ)が炭運びをしていた可能性が高そうです。ひょっとしたら、禰豆子のあのパワーは炭運びで鍛えられたものなのかもしれません。
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中村名誉教授の著書「若狭街道と鞍馬」は大阪公立大学共同出版会刊、A5判、34ページ、660円。