新型コロナウイルスの感染拡大による旅行の自粛が、今なお続いています。国内の数ある観光地の中でも、京都が受けた打撃の大きさは相当なものです。例年であれば、国内外の観光客や修学旅行生でにぎわう時季になのに、街は閑散とし、ホテルやタクシーは収入が激減しています。それは土産物産業も例外ではありません。京都を代表する銘菓である八ッ橋のメーカーに、売れ行きや見通しを聞きました。
取材したのは井筒八ッ橋本舗(京都市右京区)。江戸時代の琴の名手、八橋検校(やつはしけんぎょう)ゆかりの琴の形をした堅焼きせんべい「八ッ橋」や、三角形でもちもちとした食感の生八ッ橋「夕子」でも知られる会社です。津田純一会長兼社長(70)に聞きました。
-売り上げはどうですか。
「今春の売り上げはおよそ例年に比べて8割減です。開店休業ならいいですが、『休店休業』状態です。直営店は9店ありますが、開けているのは祇園本店(東山区)と嵯峨野店(右京区)のみ。億単位の赤字です」
-京都の町には観光客がほとんど見当たりません。
「例年の5、6月は修学旅行生が多いですが、全くいません。各学校が修学旅行の時期を秋に延期にしたり、場所を変えたりしているようです」
「京都はこれまで観光公害などと言われてきました。確かに静かになった。しかし、これはみんな(経営が厳しくなって)泣いている静けさではないですか」
-コロナ禍を通じて見えてきたことはありますか。
「会社がいかに観光客に頼っていたかが見えてきました。ありがたいことにこれまでは、あまり努力をしなくても多く売ることができました。しかし今から思うと、収益が見込めない事業はもっと早くたたむべきだったし、例えば通信販売事業など、充実させておくべき部門への努力が不足していたと認識しています」
-井筒八ッ橋本舗の歴史は1805(文化2)年にさかのぼります。明治維新や第二次世界大戦などを乗り切ってきた過去から学ぶことはありますか。
「明治のころの曽祖父(そうそふ)は進取の気性に富んだ人だったと聞いています。家業だった菓子製造や仕出し業以外にも、輸入雑貨商も営んでいたそうです。第二次世界大戦のころは、砂糖が配給制となり菓子製造は厳しくなりました。その時代は喫茶店をほそぼそと営んだり、代用品で飲み物を作って売ったりして乗り越えました」
-時代の波にもまれながらも、少しずつ変化に対応してきたんですね。
「1947(昭和22)年には、歌舞伎の復興に合わせて演目にちなんだ、あん入りの菓子『夕霧』を発売しました。70年代には東海道新幹線の利用者増に合わせて、日帰りで持ち帰ることを前提にした生八ッ橋『夕子』も売り出しました」
-とすると、今回の変化にも対応するということですか。
「気持ちは負けそうになります。でも負けられません。絶対に(会社を)守り抜くぞという気概は持っています。八ッ橋もそうですが、京都の伝統産業は長い時間をかけて、技術や文化が培われてきました。しかし伝統産業が崩れてしまうのは一瞬です。日本でも世界でも、京都にしかない文化や技術を守らないといけません」
-菓子会社ならではの強みはありますか。
「お菓子は人の心を癒やします。今はステイホームが呼び掛けられ、おうちで過ごされる人が多いです。最近、井筒八ッ橋本舗では缶入りの菓子詰め合わせを売り出しました。缶の中の井筒八ッ橋本舗のお菓子がなくなれば、よそのお菓子を詰めて楽しんでもらえばいいと考えています。今は京都へなかなか来られない人も多いです。京都の雰囲気が楽しめるお土産用のお菓子を、取り寄せられるよう充実させます」