弁当はマツタケご飯ばかりだった 全国一の産地・丹波も今は昔、人工栽培に復活かける

京都新聞社 京都新聞社

 急勾配の山道を登ると、手のひらサイズの見事な「キノコの王様」が待っていた。アカマツが生える京都府亀岡市宮前町の山林。南丹市八木町の料亭「八光館」の寺田憲司専務(33)のマツタケ狩りに同行した。

 マツタケ菌はマツの根に感染し、シロと呼ばれる塊をつくる。そのシロが胞子を飛ばす「花」にあたるのがマツタケだ。寺田専務が慎重に引き抜くとかぐわしい香りが漂う。寺田専務は「今年は発生が2~3週間遅く、出ないかと思った。丹波産は軸がどっしりして香り高い。見つけた時の喜びは大きい」。

 八光館では丹波産の焼きマツタケが目玉のコースを提供。3万円以上するが東京など全国から食事客が訪れる。

 一方で府内産のマツタケ生産量は1930年に全国1位の944トンを記録したが減少が続き、昨年は1・4トンに激減。同館では長野県産や中国産も扱う。全国では、消費の9割以上が輸入物だ。

行楽客でにぎわい

 寺田弘和社長(62)は昭和40~50年代の八木町の光景を懐かしむ。秋になると、マツタケを求める行楽客で八木駅はにぎわった。「京都市内から芸妓を連れて来られる方もいて、山で宴会をした。園部や日吉に問屋があり、贈り物に使われた」と振り返る。

 地元の八木町南地区自治会の山林では毎秋に山の入札があり、自治会に約500万円の収入があったという。寺田社長は「道の修繕や運動会に充てていた。農家も自分の山にとりにいき、みんながほくほくだった」と語る。

 山間部の美山町今宮地区もかつてマツタケの名産地だった。住民が交代で取りに行き、個人や区の所有にかかわらず、採れたマツタケの収益を住民に分配した。自宅が集荷場になっていた大秦正一さん(85)は「子どもの頃の弁当はマツタケご飯ばっかり。保存食として味噌漬けもあった」と振り返る。今では今宮区、八木町南地区とも、マツタケはほとんど出ないという。

 痩せて乾燥した土地を好むアカマツ林はそもそも人間の手で誕生した。丹波では平安京造営時に桂川の水運を使って木材が運ばれ、流域は都を支える建材や燃料の供給地だった。植生史が専門の小椋純一・京都精華大教授は「古来、京都周辺の山は伐採されすぎて回復できず、はげ山ができた。そこはアカマツが増えやすい環境だった」と指摘する。

 さらに「江戸時代初期に、はげ山はピークを迎え、山の土砂流出を防ぐためにもアカマツが植えられた」と説明する。亀岡市や八木町では土砂流出対策をした記録や京都町奉行所からの通知が残る。

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