50代の会社員Aさんは、軽度の認知症が始まった80代の父親の将来を心配し、家族で悩んだ末に設備や介護の行き届いた有料老人ホームへ入所させました。父親も新しい環境に少しずつ慣れ、Aさんも一安心していたある日のことです。
Aさんは父親に、今後の実家の片付けや管理について相談を持ちかけると、父親は突然、顔を真っ赤にして激怒し「お前たちには1円も遺さん!実家も預金もすべて彼女に譲る!」と言い放ったのです。父のいう彼女とは、施設にボランティアとして出入りしていた、父親より20歳も年下の独身女性でした。なんと父親は彼女に言われるがまま、自筆で「全財産を彼女に遺贈する」という遺言書を書き上げていたのです。
これに対し、Aさんは「認知症の父をだまして無理やり書かせたに違いない、絶対に無効だ!」と女性に詰め寄りますが、父親は「俺の寂しい老後を癒やしてくれたのは彼女だ。お前らに口出しされる筋合いはない!」と聞く耳を持ちません。このように、認知症の父が書いた遺言書は無効となるのでしょうか。北摂パートナーズ行政書士事務所の松尾武将さんに聞きました。
直ちに遺言書が無効になるわけでないが…
――認知症の人が書いた遺言書は、法的に有効ですか?
認知症と診断されていても、直ちに遺言が無効になるわけではありません。法律上、重要なのは遺言書作成の時点で「遺言能力」があったかどうかです。軽度の認知症で、自分の財産の内容や、誰に何を遺すのか、その結果どうなるのかを正しく理解できていたならば、多くの裁判例で遺言書は有効と判断されています。
有効性を争う際は、当時の医師のカルテや介護記録などにもとづく心身の状況、遺言書の内容の複雑さ、遺言内容の合理性などを総合的に考慮して判断されます。
――親族以外の第三者へ全財産を遺す遺言は成立しますか?
法的に有効な遺言であれば成立します。日本の法律では「遺言の自由」が認められており、自分の財産を相続人以外の第三者に全財産を無償で譲ることも可能で、これを「(包括)遺贈」といいます。
しかし残された親族の生活を守るため、法律は「遺留分」という最低限の取り分を保障しています。子ども(法定相続人)は、全財産を譲り受ける女性に対して「遺留分侵害額請求」を行うことで、法定相続分の原則2分の1に相当する金銭債権を取得し、相手に請求することができます。全財産を奪われてなにも相手に言えないということにはなりません。
――だまされて書かされた遺言書を無効にする方法はありますか?
受遺者が「詐欺」や「強迫」によって遺言をつくらせた場合、受遺欠格に該当し、遺贈を受けることができなくなります。遺言書の有効性を争うには、最終的に裁判所へ「遺言無効確認訴訟(裁判)」を提起することになります。
裁判では、本人の認知症の進行度を示す医療データに加え、女性による意図的な誘導や欺瞞があったことを示すメール、日記、当時の面会記録などの客観的な証拠を集めて、立証していくことになるでしょう。
いずれにせよ、親の認知機能に不安を覚えたら、できるだけ早い段階で専門家へ相談し、遺言能力に応じた公正証書遺言作成などの対策を講じておくことが求められます。
◆松尾武将(まつお・たけまさ) 行政書士
長崎県諫早市出身。大阪府茨木市にて開業。前職の信託銀行員時代に1,000件以上の遺言相続手続きを担当し、3,000件以上の相談に携わる。2022年に北摂パートナーズ行政書士事務所を開所し、相続手続き、遺言支援、ペットの相続問題に携わるとともに、同じ道を目指す行政書士の指導にも尽力している。