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映画業界32年目、『風が通り抜ける道』でカンヌに立った田中壱征監督 若き日に挫折した原点NYで次なる挑戦を語る

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ヒューマンな作品で知られ、2023年フランス・カンヌでも称賛された映画監督の田中壱征さん(52)が若き日々をすごした思い出の地、ニューヨーク・マンハッタンに再び足を踏み入れ、映画製作の基本に立ち返った。そこで見えたものは何だったのか。業界32年目の挑戦。2026年新たな幕開けを迎え、今後の作品に向け、意気込みを語った。

最初のNYで安室奈美恵さんとバッタリ

―田中壱征監督が初めてニューヨークを訪れたのはいつごろでしたか?

1996年9月でした。当時、ノースウエスト航空でJFK空港に到着し、同じイミグレーションで私の前に並んでいたのが歌手の安室奈美恵さん(当時19歳)でした。偶然同じ便に乗っていて、彼女も初ニューヨークだったそうですが、すでに著名人。こちらは講談社ベストモータリング編集部の仕事を辞職した平凡な23歳の人間で同じニューヨークに降り立ちながらものすごい格差の空気を感じたのを思い出します。

実は、自分にとって、生まれて初めての海外もニューヨーク。とにかく街の勢いにとても衝撃を受け、その時に固く思ったんですよね。「この街にどうにかして住みたい!」って。その後、その夢は、どうにか叶えることができましたが、住むというより、かろうじてこの街に身を置く程度。結局は言葉の壁や差別もあり、暮らすにはとてもハード過ぎて、イベント設営の仕事をしながら夜は寂しさを紛らわせるため、安いウイスキーにおぼれるような日々。若かったからできただけで、夢なんか叶えやしない恐怖だらけの日々が現実でした。とにかく、2年半ももたなかった当時の切ない思い出が残っています。

―ニューヨーク生活を終え、その後は?

ニューヨークを離れる日のこと。JFK空港で完全にひとりになった時、負けん気がもたげ「もっと大きくなって、いつかニューヨークに戻りたい!」と心の中でずっと唸っていました。そのとき、なにかを成し遂げようと、ひらめいたのが貧乏旅行でした。

1998年から1年間、バックパッカーとしてインド、東南アジア、UAEをはじめ32カ国を旅しました。最後に行き着いたタイ・バンコクでは、しばらく住みつき、その後、お金も尽きて帰国をしました。その後に一度、ニューヨークへは友人の結婚式で戻る機会があったのですが、その時、帰国日がなんと2001年9月11日。JFK空港から飛行機に乗り込んだ3時間後、カナダ上空を飛んでいたとき、あの9・11同時多発テロが起こったのです。22時過ぎに成田空港に到着したらTVの報道陣だらけで周りが大騒ぎ。記者の方が報道テレビカメラに向かって「たったいまニューヨークからの最終便が到着しました」と叫んでいました。

私は頭の中が真っ白になり、ニューヨークでの思い出と仲間の顔が走馬灯のようにやってきて、その場で立ちすくんでしまった。涙が止まらなく、今でもその時の嘆きと悲しみを鮮明に覚えています。2001年9月11日帰国のパスポートは、今でも大事に持っております。

思えば、あれから25年間、日本で、とにかくがむしゃらに突っ走って来たと思います。今では映画監督として、厚生労働省推薦やカンヌ国際映画祭レッドカーペット、一般劇場公開ロングラン、文化庁主催全国学校上映など、結果を少しずつ残せたかと思いますが、貧乏と過労倒れはとにかく繰り返しましたね。夢というより、現実の毎日を精一杯やり切ることだけに集中してきたとか思います。気がついたら結果がついて来たように思います。

―2歳から両親もいなく、実家もないという環境だったとのこと。一体どうして、ここまで頑張れたのですか?

物心のついた時には、両親はもういませんでした。他のまわりの家族たちと180%違った環境を知れば知るほど、1日1日に対して、その逆の環境を順応していく他ありません。友達たちは泣けば、親の元へ自然に泣きついていく。私の場合は歳をどんどん重ねシワが日々増していく祖父母の元だったので、祖父母に泣きつくどころか、祖父母の体が心配でいたたまれない毎日でした。

頑張って育ててくれた祖父母が天国に旅立って逝った時、本当に人生の孤独を感じたように思います。「もう辛い環境の日本にはいたくない!海外へ飛びたい!」と。ただ、人生というのはわからないもので家族が欲しかった自分なのに、32歳で離婚をして、大事な娘と息子と離れてしまうことになり、大事な核を失ってしまったことに、大きな喪失感の毎日でしかなかったです。

膝の上にいる娘と息子を抱き抱えながら、たわいもないTVを一緒に見て、幸せを感じていたのに。生活的にお金は大変でしたが、子供たちと一緒にいること自体が本当に幸せすぎて…。

「なぜ、この世に生まれてから、大切な人々が目の前から消えていくの…?」
「でも、前を向いて、頑張って生きていくしかないよね!」

こんなことを呟きながら、これらすべての寂しい感情が私の大きなバネになったと思いますし、自分がヒューマン映画の監督になる元になったと言えると思います。

―商業映画の監督になって、人生は変わりましたか?

とても難しい質問を投げかけますね。精神状態は、より大変になって来ていると思います(笑)。

予算やスポンサーさまの規模がでかければでかいほど、関わる俳優さんがトップであればあるほど、スタッフさんたちが多ければ多いほど、一般劇場公開の劇場が大きければ大きいほど、関わる行政が多ければ多いほど、プレッシャーと責任だらけの毎日になります。自分が原作脚本した内容であれば、なおさら軸を外さず、初一念を貫く他ありません。

一方で毎日のしかかるプレッシャーと責任こそが、人間自体を大きくしてくれるのかなと最近つくづく感じることがあります。ですので、日々を邁進する中で、夢と希望は少年のように持ちつつ、商業の映画監督になる前も、そして今も同じだと思いますが、プレッシャーと責任とどう真摯に向き合い、善き結果にしていくかが、今の人生過程なんだと思います。

―映画監督になってからここまでを振り返って?

自分は誰に何を言われても、誰にどんなふうに思われても、自分対して、素直に未来像を見ていていたと思います。それは今も同じ。これまでの映画制作においても、「もう限界」という時が多々ありました。

経済難、ロケ地ボツ、足りないスケジュール、キャスティングチェンジ、責任なすりつけや裏切り、圧力、人間不信など。映像業界は32年目となりますが、私が商業映画監督になってからの最初の5年間がとにかくしんどかったですね。行き詰まった境遇の私を周囲はじっと見ている感じで魂の限界筋トレと言ったらいいでしょうか。そんな状態が毎日がずっと続くのです。映画監督業は実に地味で地道な道の連続でしかありません。

私をこれらの「NO」を、なんとかして、ひとつひとつ「YES」にひっくり返していきます。だから結果「奇跡の神様」の方が私に、徐々に向かって来てくれました。人生なんて自由なんだから、いつでも逃げ出せるし、いつでも終わらせられる。ただ、いつも思うんです。「両親がいなかった幼き頃から大人になるまで、あの時の寂しさや孤独、屈辱、苛立ち、葛藤、無力さ。あの頃に比べたら、今はまだ幸せだ!」って。だから、はっきり前を向くことができるんだと思います。

―最後の決断は自分自身でするしかない、ということでしょうか。

最終的には自分の中に存在するものは「クソ根性」の熱意そのものしかないんですよね。若い時に日本を飛び出して、何もかも自由なバックパッカーをやっていた自分が言うのもなんですが、そして、人々を大事にできなかった時代もあった大馬鹿な自分が言うのも大変恐れ多いですが「人生」と「時」は大きく変化していくものだと、今感じています。

親も、お金も、住む家も、居場所もなかった自分だから今の人生に対して、逆に感謝の気持ちも年々、大きくなって来ているのも事実です。

―最近、監督が始めた社会活動があるようですね。

まだできる範囲でございますし、コツコツではありますが、年々チャリティー活動や寄付活動ができるようになって来ました。厚生労働省推薦 映画「ぬくもりの内側」の上映収入をチャリティーにして、能登復興支援金として現地に送ったり、日本盲導犬協会や日本駆け込み寺(~たった一人のあなたを救う~)にクリスマス寄付をしたり、後進国でのチャリティー上映(文化共有)を再開したりしております。

まだまだ私は非力ではありますが、これまでの人生で多くの方々に支えられてきた恩が多くありますので、これからは「ペイフォワード」として、国内外でより社会貢献ができればと夢見ております。

―今の海外拠点はどちらになりますか?

コロナ禍を終え、自分はやっと海外に戻れることができ、拠点もいくつか持つことができました。今、海外で拠点となる場所はニューヨーク、そしてパリとインドになります。今もパリから大西洋を渡って、ニューヨークに入っています。日本を離れているとちっぽけな自分をいつも客観視できます。

―気分はまだバックパッカーなのでは?

そう言えば、バックパッカーをはじめてすぐの年末年始に私はお財布を落としてしまい、財布やクレジットカードが戻って来ない事件がありました。そのとき、ゲストハウスで出会った友人や旅先で仲良くなった現地のお友達たちが「これで旅を続けろ!」と、なけなしのお金を自分に渡してくれたのです。ありえない感謝の連続でした。

その後、1999年1月にエアー代を除いて、たった400ドルで、1カ月間、インドを縦断をしました。病気やスリなど何かあったら、すべてが「無」になって、これこそ人生おしまいです。インターネットすらない時代なので、毎日が不安と挑戦でした。その際に窓ガラスがなく、サスペンションが壊れている古いバスで舗装がされていない砂利道を夜通し400キロ延々と走った経験があります。凍てつく寒さの中、電気がつかない車内で毎秒、大型電気ドリルを受けているような気持ち悪いGの連続。そして、入ってくる砂ほこりで目を開けていられません。

乗ってしまったことに後悔しても、我慢するしかなく、時の流れに身を任せ…。そして、そのバスが最後に行き着いたところはサイババがいるプッタパルティーでした。天国のような環境で、結局、サイババの元で、修行をしてしる自分がいました。あのバスは、ある意味、「人生を生きてる醍醐味」みたいな体験ができたと今では思います。

―信じられないような体験ですね。

世界の様々な土地に行くと、新しいSOMETHINGが味わえます。そのひとつひとつが宝物に変わっていくんだと思います。

―壱征監督の今後のビジョンは?

時の流れに身を任せと言いたいところですが、今いるこのニューヨーク・マンハッタンで映画撮影の基本に戻り、私自身も再度カメラを握って、様々なるノウハウを構築しています。今夏には何か作品となって、みなさんの前で、ご披露できるかと思います。他にも、いくつかの長編映画を控えております。感謝の気持ちを一番に健康を考え、ひとつひとつを大切に、日々日々、より精進をしていく所存です。

―最後に壱征監督にとってのニューヨークは?

23歳からニューヨーク自体が、自分自身のポテンシャルの原点になっていることは確か。Jay Z ft. Alicia Keysの「Empire State Of Mind」は「マンハッタンをリアルに生き、自分自身に勝っていく感」が伝わり、たまりません。精神的にきつい時はいつもこの曲を聴いて「ニューヨーク魂」を瞬時に思い出し奮い立たせています。

いつも聴いているアーティストJay Zさんの奥さまであるBeyoncé さんはヒューストン出身。そのヒューストンには、実は私の近い親戚(アメリカ人家族たち)がおります。26年はニューヨークやロサンゼルス以外にも親戚に会いに、ヒューストンに久々に行きたいです。そして、本題のニューヨーク。ニューヨークは気分が最高に良い時は、「この街は自分の為にある!!」なんて、面白い錯覚を味わえます。でも、とても落ち込んだ時は、摩天楼そのものが、とてつものなく大きな壁に見えて、すべてが恐怖しかありません。そんなニューヨークでも、少しずつ結果が得られるように、これからも努力は惜しみません。

2018年に、マンハッタンのDCTV(ダウンタウン・コミュニティ・テレビジョン・センター)で、監督/脚本した映画「Tokyo Loss」(English字幕版)が上映されました。自分自身にとっては、まさか昔住んでいたこの街で、監督した長編映画が上映できるなんて、夢にも思いませんでしたし、上映最後の瞬間は、感動でもう涙が止まりませんでした。

今後、日本国内や国外映画撮影地での大手シネコン一般劇場公開は不可欠となりますが、また、このコンクリートジャングルのマンハッタンで、自分の映画が上映できますように、そしてたくさんのニューヨーカーのみなさま、世界中のみなさまに新作ヒューマン映画を観に来ていただけるように、今後もビルドアップをしてまいります。まだまだの私でございますが、御応援のほど、何卒宜しくお願い致します。

   ◇   ◇

【田中壱征監督プロフィール】

1973年10月5日生まれ、千葉県出身。講談社ベストモータリング映像編集部辞職後、アメリカ・イギリス・タイに在住。世界一周(32カ国)のバックパッカーも経験し、帰国後に映像界・舞台界での下積時代を過ごす。

■2015年 映画「Tokyo Loss」映画監督デビュー / 後進国でチャリティー上映実施
■2017年 福島県川内村 東北復興ドキュメント 現役時代の安倍晋三首相を撮影
■2018年 オスカーアカデミー賞及びエルトン ジョン Foundation Oscar Viewing Party 公式参加
■2018年 フランス政府認定 社会功労奨励章文化芸術部門「オフィシエ勲章」
■2022年 映画「ぬくもりの内側」厚生労働省推薦/ 文化庁主催全国学校上映
■2023年 映画「風が通り抜ける道」沖縄国際映画祭 正式出品
■2023年 SUPER STAR AWARDS CANNES2023「BEST  FILM AWARDS」受賞
 映画「風が通り抜ける道」カンヌ国際映画祭  特別披露上映及び レッドカーペット
■2026年 映画「Tokyo Loss 2」・ひとつに会える街」一般劇場公開予定

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