人に親切にすることは、たとえば席を譲ったり、落とし物を拾って渡したりと、誰にとっても気持ちの良い行為です。しかし、その善意がきっかけで、思わぬ形でプライバシーが侵されることもあります。都内の人気学区に暮らすMさん一家が直面した「内見騒動」は、親切心の裏にあるリスクを浮き彫りにしました。
「ぜひ内見を」と頼まれて
Mさん(40代)一家が暮らすのは、都内でも指折りの教育熱心なエリアです。周囲には有名大学も多く、都内にありながら自然も豊かです。近隣の公立小学校は評判が高く、入学を目当てにわざわざ引っ越してくる家庭も少なくありません。Mさん夫婦も子どもが小学校に上がる前、その評判を信じて現在の賃貸マンションに転居してきました。
子どもたちが小学校を卒業してすでに数年。成長とともにマンションが手狭に感じられるようになり、Mさん一家は引っ越しを決めます。新居も決まり、荷造りに追われる日々。その最中、不動産会社から一本の電話が入りました。
それは退去日の15日前のことでした。「入居希望の方がいるので、ぜひ内見をお願いしたい」。通常なら退去後、空室になってから行うはずの内見を、入居中のまま見せてほしいという要望でした。
Mさんは一瞬迷いましたが、これまで管理会社に親切に対応してもらったことや、自分たちが物件探しをしていた際に前の住人が快く部屋を見せてくれたことを思い出し、「自分も親切のバトンをつなげるかもしれない」と考えました。
夫に相談すると、最初は「そうか」と軽く応じたものの、少し経ってから「いや、やめたほうがいい」と反対に転じます。
「見せる義務はないし、片づけ途中の散らかった部屋を見せても印象は悪くなる。生活感が残っている状態は個人情報のリスクもある。善意で対応する必要はない」
冷静な反論にMさんは戸惑いましたが、すでに了承してしまった手前、断ることができませんでした。
当日やって来た「小さな訪問者たち」
迎えた当日、内見に訪れたのは小さな赤ちゃんを抱いた若い夫婦でしたが、その様子に少し驚きました。ベビーカーを押しながら部屋に入り、「うちの子はまだ1歳半なんですけど、この学区の学校に通わせたいんです」「学区で決めようと思っています」と目を輝かせます。
部屋の間取りを確認するだけかと思いきや、話題はすぐにMさん自身の子育て経験へと移っていきました。
「子育てってこのエリアだとどうですか?」
「小学校の宿題ってやっぱり大変でした?」
「中学受験塾はどこへ行きました?」
「小学校内でも中学受験する人は多いですか?」
矢継ぎ早に質問が投げかけられ、Mさんは思わず答えてしまいました。
さらに驚いたのは、その日の午後、もう一組、3歳児連れの家族が続けて内見に訪れたことです。こちらの夫婦も同じように「教育環境」を熱心に尋ね、まるで部屋の下見よりも「子育てと受験の実体験の聞き取り」に夢中になっているようでした。
Mさんは笑顔で対応しながらも、「これは単なる内見ではなく、私が無料で教育相談会を開いているのでは?」という奇妙な感覚に陥ったのです。
善意のはずが「情報の提供者」に
好意で部屋を開放したはずが、結果的には「地域の教育事情を語る役割」を担わされてしまったMさん。確かに、希望者から見れば、そこで長年子育てをしてきた住人ほど信頼できる情報源はありません。学校の雰囲気や塾の情報、受験事情など、不動産会社の物件情報には載っていないリアルな話が聞けるのです。
しかしその一方で、答えた内容がどのように受け取られるかは分かりません。何気なく話したエピソードが誤解を生み、「このエリアは競争が激しいらしい」と不安を煽ることもあれば、「ここに住めば必ず学力が伸びる」と過度な期待を持たせてしまう可能性もあるのです。
◇ ◇
Mさんはその晩、夫に経緯を話しました。すると夫は「やっぱり言った通りだ。退去後に見せればいいし、子育てのことまで話す必要はない」と冷静に言いました。
そのときMさんは、善意のつもりで開いた扉が、相手の好奇心まで招いてしまったことに気づきました。親切心で玄関を開けたはずが、部屋だけでなく自分たちの生活にも踏み込まれてしまったように感じたのです。
善意とプライバシーの線引きは難しいものです。教育環境や子どもの成長は家庭ごとに違い、Mさんが伝えた情報が正解だったかどうかも分かりません。
「優しさのつもりが、気づけば余計な役割を背負ってしまった」とMさんは振り返ります。部屋を見せるのは一瞬でも、言葉にした情報は相手に強く残ります。
退去前の慌ただしい中で起きたこの出来事は、親切とプライバシーの境界を静かに浮かび上がらせました。