第24回、まひろ(紫式部、演・吉高由里子さん)の父、藤原為時(演・岸谷五朗)の赴任先の越前国で次のようなシーンがありました。松原客館の通事の殺害に加担した越前介源光雅(演・玉置孝匡さん)の失脚の後、前の介はじめ越前国の有力者に為時が面会し、国衙に帰宅したときです。同行した越前大掾大野国勝(演・徳井優さん)との会話の中で、為時が「気比宮の宮司も新鮮であった」というのに対し、国勝が表面的な態度にすぎないといさめました。清廉潔白な学者で世渡りがへたな為時をあらわす場面でした。今回は、気比神宮と越前国司について取り上げます。
気比神宮は福井県敦賀市の北東部に鎮座します。「気比宮社記」によれば、仲哀天皇の時、神功皇后が三韓出兵の成功を気比大神に祈り、海神を祀るようにとの神託があり、祀らせたのに始まるといいます。現在は、「北陸道総鎮守」「越前国一之宮」といわれています。ドラマで為時が宋人に出会う松原客館は、気比神宮宮司が検校していました。『続日本後紀』承和六年(839年)二月二十六日条に越前国気比大神宮とみえ、越前国司に任ぜられていた当社雑務をやめ、神祇官に従うこととされて以後、朝廷とのかかわりを強めたようです。
気比神宮は、神階叙位(神社の祭神が官人のように位に叙せられる)の初例であり、また、神宮寺の建立の時期も早い神社です。そして、大陸との関係の緊張した時期や蝦夷の反乱などに際して、叙位される神でした。この気比神宮には、神宮司という役所が置かれ、その地位を望むものが多く、神祇官に申告することが定められています。また、交替に際して、国司と同様に解由状(官人の任期が満了した際、新任者が前任者に渡して任務を終了することを証明する文書)を必要とする重要な官でした。
元慶8年(884年)に、この気比神宮の神宮司と越前国司との間に経済的な面で軋轢がありました。気比神宮の祭祀に係る費用は、封戸の租穀が充てられることになっていましたが、国司が官庫に納め、他の用途に支出した後に神庫にあてるという手続きであったため、祭に間に合わないことがありました。そのため、延暦12年(793年)、弘仁元年(810年)に越前国司と宮司の相論があったことから、宮司が神祇官に訴え、租穀を直接、神宮の神庫に納めることを願い出て、太政官もこれを認めたというものです(『類聚三代格』巻一、元慶八年九月八日太政官符)。つまり、神宮司は祭料の租穀の出納に関して、国司の管轄を離れ、独立した財政運営を行なうことになったのです。したがって、九世紀に気比神宮と越前国司は封戸の租穀の出納に関して、対立する要素を持っていたということになります。
この気比神宮で元慶2年(878)に火災が発生します。『日本三代実録』同年二月二十七日条に、次のようにあります。
これより先、越前国言はく、気比大神宮祝部等申して曰はく、神宮忽ち火災見ゆ。驚き宮に走り入るに、実に失火なし。陰陽寮占いて云はく、穢、神社のために、因りて「祟恠」現る。彼の国、疫癘・風水の災慎むべし。是日、国宰に下知し、神宮を洒掃し、仏経を転読せしむ。
気比神宮の火災を「祟恠」と陰陽寮が占断しています。全国の神社を管轄する神祇官ではなく、陰陽寮が占っていることは異例でした。
気比神宮の火災について、神宮側は失火ではないと言っています。このことを越前国司は中央に言上しましたが、中央では陰陽寮の占いによって、神社の穢が原因で「祟恠」が現われたと認識したのです。そして、その対処は、国宰(国司)に下知し、神宮を清掃し、お経を転読する、というものでした。つまり、太政官―越前国司というルートでこの判断が下されており、そこに神祇官や気比神宮司が現われていないのです。気比神宮の神宮司は神祇官との結びつきが深いものでした。そこで、あえて神祇官の占い(卜部の亀卜)ではなく、陰陽寮の占いによって認知しているのではないでしょうか。つまり、国司と気比神宮司との対立が、陰陽寮に判断を仰ぐきっかけとなったということになります。
この火災の当時、越前守を務めていたのは橘良基です。彼は、勧農や貧救を主眼においた民政を行ない、律令負担の納入を確保に勤めた「良吏」と呼ばれる国司でした。また、権大掾家原郷好は陰陽頭(長官)でした。朝廷や越前守橘良基の強い要請があったからこそ気比神宮の火災を陰陽寮が占うことになったものと思われます。
9世紀の越前国司と気比神宮の対立を背景に、ドラマの場面を見ると、藤原為時と大野国勝の会話が持つ意味が深まるのではないでしょうか。