プロ野球阪神の近本光司選手(29)が今春、全国の離島支援などに取り組む一般社団法人を立ち上げた。現役の野球選手が、法人を立ち上げてこうした活動を行うのは異例。近本選手が法人の代表理事就任を任せたのは、高校時代の一つ上の先輩・石井僚介さん(31)だ。石井さんに、近本選手とタッグを組んだ経緯や今後の展開について聞いた。
近本選手は兵庫県・淡路島の津名郡東浦町(現・淡路市)の出身。法人の設立以前にも、淡路島や自主トレ先の沖永良部島の子どもたちを対象にスポーツ教室を開いたり、故郷の住民を阪神戦に招待したりするなど精力的に活動してきた。2023年には社会貢献活動やファンサービスに取り組む選手として球団から表彰を受けている。
活動の幅を広げ、現役引退後も長く支援を続けていきたいとの思いから、今年4月に一般社団法人「LINK UP」(リンクアップ)を立ち上げた。近本選手自身が出資するほか、スポンサー企業からの協賛金で淡路島、沖永良部島への支援活動などに取り組む。
近本選手自身は理事になり、代表理事に就いたのが石井さん。石井さんは、近本選手の社高校(兵庫)野球部時代の一つ上の先輩にあたる。大学からアメリカンフットボールに転向し、実業団時代には日本代表に選出された経験もある元アスリートだ。
高校時代「ずっと一緒にいた」2人
ーーー社高校で近本選手と一緒にプレーした時のことを教えてください
近本がライトで僕がセンター、なので隣のポジションを守っていましたね。移動のバスとか試合中のベンチとか、ずっと一緒にいた気がします。
ーーー学年が違っても仲が良かったんですね
僕らの時代はまだまだスポーツの上下関係が厳しかったんですけど、僕も近本もそういうのが好きじゃなかったのかなと思います。ただ仲が良いから一緒にいた、という感じです。あと「入部した時は投手だったけれど外野に回された」という境遇が二人とも同じだったので、分かり合えた部分もあったのかもしれません(笑)。
ーーーやはり当時から近本選手の実力はずば抜けていたんでしょうか
それが、意外だと思いますが当時は周囲が「絶対にプロ行く」と口をそろえるほどの存在ではなかったんですよ。1年生の頃からベンチ入りしていたわけではありませんし。ただ、バッティングのタイミングの取り方なんかは他の選手と違う、明らかに光るものがありました。良い意味でマイペースで周りに何を言われようと「我が道を行く」タイプなので、それが今の結果に繋がっているんじゃないなと個人的には思っています。
〈高校卒業後、近本選手は関西学院大〜大阪ガス〜阪神と進んだ。アメフトに転向した石井さんは神戸学院大で頭角を表し、卒業後、実業団のLIXIL(東京)などでプレー。花形ポジションのQB(クオーターバック)を務め、2020年には日本代表にも選ばれた〉
ーーー高校卒業後も近本さんとは懇意にされていたんですか
そうですね。お互い環境が変わっても、定期的にご飯に行っていました。あと、2019年からは一緒に自主トレもしていました。
近本選手の思いに共感
ーーーそんな中、一般社団法人設立のお話があったのはどんなタイミングだったんでしょうか
僕が現役を引退して23年5月に地元の兵庫に戻ってくるタイミングで、一応近本にLINEで連絡を入れたんですよ。「引退しました」って。そしたら「じゃあ僕とちょっと一緒に仕事やってもらえませんか」と返ってきて…。もちろんそんなつもりは全くありませんでしたから「どういうこと?」と思いました。
で、その後近本が芦屋のお寿司屋さんに連れて行ってくれました。彼はいつになく緊張してましたね(笑)。お互いの近況とか話した後「こんな活動をしたいんですけれど、代表をやってもらえませんか」とお願いされました。そんな頭を下げてお願いされるようなことがなかったので、すごく熱量を感じて「これは一緒にやりたいな」と僕も思いました。
ーーー近本さんは以前から石井さんに頼みたいと思っていたんでしょうね
LINK UPの構想自体は2、3年前からあったらしいんですよ。周囲にはスポーツのコンサルティングやビジネスで成功されている優秀な方がたくさんいらっしゃるはずなんですけれど、近本としてはプロに入る前の自分を知ってくれている人が良かったみたいで。プロ野球選手としての近本光司ではなく、ただの知人として自分を知ってくれている人が良かったと。なので、ありがたいことに僕が引退報告のラインした時に「これや!逃したらあかん!」と思ってくれたそうです(笑)。
ーーー石井さんの受け止めは
驚きましたけど、やっぱり嬉しかったですね。僕自身も兵庫の小野市という田舎の出身なので、「子どもたちに色んな世界を見てほしい」という彼の話を聞いて共感できるところもすごくありました。
ーーーご自身の経験とも重なったんですね
というのも、僕自身が小学校を卒業したタイミングで父親の仕事の関係でアメリカのアーカンソー州に引っ越したんです。最初英語が全く話せなかったのに、日本語学校ではなく現地の学校に入れられました。もちろん差別もありましたし、そんな環境に放り込んだ親をちょっと恨むような時期すらありました。
でも今になって思えば、その中で必死で英語を習得したり、だんだんとコミュニティーの輪を広げていったり、何より日本と全く違う環境を知ることができた経験は僕の人生の大きな糧になっているんです。
近本も高校生の時に地元を離れて、選択肢が広がったという話をしていました。もちろん島から出ろと言っているわけではなく、子どもたちの視野を広げて新たな選択肢を加えるお手伝いを出来たら、という思いを2人とも持っています。