女優・吉高由里子さんが主演で平安時代を生きた紫式部を演じるNHK大河ドラマ「光る君へ」。第16回は、平安京でまん延した疫病による混乱が描かれていました。悲田院で看病していたまひろ(紫式部)も罹患してしまいます。都で流行っていた病はやがて宮中にも及びます。
第18回では、「七日関白」藤原道兼(演・玉置玲央さん)が疫病で薨去(こうきょ、皇族・三位以上の人が死亡すること)しました。今回は、平安末期に成立した編年体の史書『日本紀略』を中心に、正暦年間の疫病についてみていきましょう。
『日本紀略』正暦四年(993年)六月の条に、「人民悉く咳疫。五、六月の間、咳逆の疫あり。」とあり、インフルエンザとみられる咳をともなう流行病があったことが記されています。宮中の清凉殿では、四十人の僧侶が五日間、大般若経を転読しています(六月二十日条)。さらに、七月から八月にかけて、疱瘡(天然痘のこと)が流行し、全国に広がりました(『日本紀略』『扶桑略記』)。
翌五年になると、感染状況はさらに悪化します。四月から七月まで、都の住人の半数が亡くなり、五位以上の貴族も六十七人亡くなったとあります。「過半」(『日本紀略』)という表現は誇張されていると思いますが、相当な被害があったことは想像に難くありません。
「左京三条南油小路西に小さき井あり。狂夫云う。この水を飲めば、疾病免ずべしてへり。よって都人の士女挙首し来りて汲む。」(五月十六日条)とあり、「この井戸の水を飲むと病に罹らない」という狂言があったり、公卿から庶民に至るまで「妖言」によって門戸を閉ざして、家に籠ったり(六月十三日条)など、人々の疫病に対する不安が広がっていたことがわかります。
この疫病は、「今年、正月より十二月に至り、天下の疫癘最盛す。鎮西より起こり、遍ねく七道に満つ。」(『日本紀略』)と九州地方から全国に伝播しました。
『日本紀略』正暦五年六月二十七日条には、民間から生起した御霊会が行われた記録があります。
疫神のために御霊会を修す。木工寮修理職、神輿二基を造り、北野船岡の上に安置す。僧を屈し、仁王経の講説を行わしむ。城中の人伶人を招き、音楽を奏す。都人の士女幣帛を賷持す。幾千万人と知らず。礼了りて難波海に送る。これ朝議にあらず。巷説より起きる。
二基の神輿を北野、船岡山に安置し、僧侶の経典の講説や音楽の奏上などで祀った後に神輿を難波海(大阪湾)に送っています。西国から都にやってきた疫病を、都の外に出し、海に送ることによって逃れようとしているのでした。ここでは、疫病をもたらすものは「疫神」とされています。ドラマでも安倍晴明(演・ユースケ・サンタマリアさん)が「疫神だ」と語っていました。
「疫神」は、神輿に乗せて都の外に追い出すとともに、入ってこないように境界で防御する祭りも行われていました。その場であったと伝えられる場所が残されています。山陽道の摂津国と播磨国の境にある多井畑厄除八幡宮(多井畑厄神、神戸市須磨区)にある「疫神祭塚」と山陰道の山城国と丹波国の境にある篠村八幡宮(亀岡市)にある「乾疫神社」です。
現代でも多くの人々を不安におとしいれる感染症ですが、平安時代の人々にとって「疫神」とは、流行病をもたらすウイルスのような存在だったと思われます。
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神と霊が照射する古代の人々の心を「怪異学」の視点で研究する園田学園女子大学学長の大江篤さん。「怪異学」とは、フシギなコトやモノについての歴史や文学の記述や記録を解読することで日本人の心の軌跡にアプローチする研究分野です。研究者が見る「光る君へ」論を寄稿してもらいます。