戦後直後からの理髪店が閉店 先代店主が抱えていた壮絶な過去「軍医どの、痛いであります」

京都新聞社 京都新聞社

 京都市北区の理容師、白数勝治さん(80)は昨年9月、家族ぐるみで長く切り盛りしてきた「理容シラカズ」を店じまいした。

 こぢんまりとした店内には鏡張りの壁面とリクライニングシートが2席。

 客足の途絶えた静かな空間で白数さんが思い出すのは、はさみ一つで人生を切り開き、戦争の傷痕に死ぬまでもがき苦しんだ父の姿だ。

 理容シラカズの初代店主、光敏さんは太平洋戦争さなかの1943年に招集され、京都、滋賀出身者を中心とする陸軍第53師団の一員としてビルマ戦線に赴いた。敗戦後はビルマのラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)で捕虜となり、47年に帰国した。

 従軍前、理容師修行を積んでいた光敏さんは、帰国から間もなく理容シラカズを開業した。捕虜時代に現地ビルマの人たちに喜ばれたという自慢の腕前は、たちまち近所の評判となり、店は多くの常連客でにぎわった。

 光敏さんの背中を見て育った白数さんは自然と「自分も理容師になりたい」と思うようになった。中学を出ると理容学校に進み、1年間のインターンを経て免許を取得。さらに5年間、下京区の店に住み込んで技術を磨いた。

 住み込み時代は多忙すぎてなかなか食事をとることができず、仕事を終えても口に入れられるのは茶わん一杯のご飯と漬物だけだった。

 今もよく思い返すのは、空腹に耐えきれず、実家に逃げ帰った時のこと。白数さんが「ご飯を食べたい」と訴えると、光敏さんは息子のためにぜいたくなすき焼きを用意してくれた。「食うたら帰れ」。そうつぶやく父の目は、涙で真っ赤になっていた。

 仕事には人一倍厳しく、真面目を絵に描いたような人物だった。そんな父を毎晩、戦争の記憶が苦しめた。

 かつて送り込まれたビルマの戦地には敵の戦闘機が飛び交い、爆撃によって多くの戦友が命を落とした。戦争が終わっても地獄の光景は脳裏に焼き付いたまま。父は悪夢から逃れようと酒を浴びるように飲んだが、酒量が増すと決まって目の前に戦友が現れた。

 光敏さんの苦悩は、がんを患って75歳で亡くなるまで続いた。

 白数さんは「意識もうろう状態で敬礼のポーズをして『軍医どの、痛いであります』と叫ぶこともありました。あれを見たら涙があふれて。命果てた時、ようやく父の戦争は終わったのだと思いました」と振り返る。

 光敏さんの死後、白数さんは妻喜代子さん(79)と二人三脚で理容シラカズをもり立ててきた。

 「お客様に愛される仕事を」と懸命に走り続けた理容師人生だったが、年には勝てず、昨年9月に店を閉める決意を固めた。息子が理容師となり、別の地域で店をしていることも決断を後押しした。

 昭和、平成、そして令和の時代を通し、地域に根を張り続けた理容シラカズ。ひっそりと静まり返った店内で白数さんが言った。

 「父と親子2代でこの店をやってこれたことを誇らしく思います。閉店することにはなりましたが、何の後悔もない。父にはあらためて『ありがとう』『ごくろうさん』って言葉をかけてあげたいです」

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