衣料品大手「H&M」が1月、オーストラリアで展開したキャンペーン広告に「女児の性的対象化につながる」といった批判が集まり、広告を削除・謝罪する騒動があった。日本でも広告の“炎上”事例は多く見られるが、われわれ消費者は広告における表現をどう見極めるべきなのか、識者に聞いた。
問題とされたのは、同社がオーストラリアのSNSユーザー向けに配信した広告。通学バスを模したピンク色の空間に制服姿の少女2人が立ち、こちらを振り返っている。「Make those heads turn in H&M’s Back to School fashion(H&Mの『バック・トゥー・スクールファッション』で注目を集めよう)」(※ バック・トゥー・スクールは新学期の意)というコピーが添えられており、この文言に疑問を投げかける声が上がった。
広告における性的表現や児童ポルノなどの問題を扱うオーストラリアの作家、メリンダ・タンカード・リースト氏はXで広告を批判。「私が学校で関わる子供たちの多くは自分の外見に不必要な注目を集めたがっていない」「なぜ少女が自分の外見や体、スタイルに注目を集めるべきだという考えを煽ろうとするのか」とした。
他のXユーザーからも「女児の性的対象化につながる」「制服姿で振り向かせようというニュアンスがある」「ルッキズムの意識を植え付けてしまう」といった意見があった。
これを受け、同社は広告を削除。Xで「広告に不快感を感じた方々に深くお詫び申し上げる。今後の広告の方向性について検討する」と謝罪した。
こうした広告の“炎上”事例は日本でもよく見られるが、我々消費者はさまざまな広告の表現とどのように向き合えば良いのか。東北学院大学の小宮友根准教授(社会学・ジェンダー論)に聞いた。
ーーーH&Mの広告が批判を浴びた件について
小宮氏:児童への性的虐待に対する危惧、女性がより性的対象にされやすい現状への問題意識などが議論のポイントになっていると考えられる。
広告は一見すると、女の子を性的対象にする描き方はされておらず、むしろおしゃれをしようという女の子の主体性が描かれているともとれる。しかし、だから問題ないという話にはならない。あくまで広告には作り手がおり「どういった価値観を表現しているのか」が問われる。
つまり「自身の性的魅力を気にする主体」として女児を描くことが、現実社会における性差別や児童虐待との関係でどのように見えるのかが問われている。広告を作るという行為自体が社会的行為であり、作品が社会から切り離されたところにあるわけではないという点は留意すべき。
ーーー日本でもこうした広告の“炎上”事例は多い。広告が「性的である」といった批判、それに対する「表現の自由だ」といった反論、という構図の議論もよく見られるが、どういったポイントで広告について考えるのが適切か
小宮氏:前提として、憲法の「思想の自由市場」という観点で、企業が行う広告に対して市民が批判や議論をし、それに企業が反応するーといったやり取りは望ましいものである。
その上でジェンダーやフェミニズムに関する議論で言えば、「性的に」描かれることが問題なのではなく「性差別的に」描かれることが問題である。例えば女性ばかりが性的対象として描かれたり、家事育児をしているのが必ず女性であるといったステレオタイプなジェンダーロールに従った女性像が表現されたりしているものもそう。端的に言えば「ステレオタイプな表現がなされていないか」という観点から議論が行われてきた。
そうした議論が行われる背景には、現実社会で女性が家事育児の負担を多く担っている、性暴力やセクシュアルハラスメントの被害に遭っている、といったさまざまな現実の問題に対する認識がある。だからこそ、そういった認識の上にどのような表現が望ましいのか、という議論は必要。「性的な表現か、表現の自由か」といった不適切な構図が、必要な議論を阻んでいると感じる。
「公的な空間に性的な表現が出てきてはいけない」という主張は性差別とは全く別の話で、むしろ歴史的には、フェミニズムの議論はそうした主張に反対をしてきている。例えば女性差別的ではない愛や性愛の描き方は必要であるし、より最近であれば性的マイノリティーの人たちの権利が強く意識されるようになり、多様な愛や性愛の描き方が求められるようになってきた。
性教育的な文脈も含め、性的な事柄を語ること自体はフェミニズムの観点から見ても必要な場面はたくさんある。性的な事柄がいけない、という話ではなく「性的な事柄が語られる時にそれが性差別的でないかどうか」が重要で、文脈に照らして一つ一つの事例を考えていかなければいけない。