「人のかたまりがなだれ」女優も犠牲、88年前の京都駅でもあった雑踏事故 警察史も認める「警備の難しさ」

浅井 佳穂 浅井 佳穂

 韓国・ソウルの繁華街、梨泰院(イテウォン)の路地で10月29日夜、ハロウィーンを前に集まった多数の若者らが折り重なるように倒れる事故が起きました。日本人女性2人を含め、死者は150人以上に上ると報道されています。2001年に兵庫県明石市の歩道橋で起きた事故が記憶に新しいですが、戦前の京都でも77人が亡くなる事故がありました。88年前に京都駅で起きた雑踏での悲劇を当時の新聞記事などから振り返り、教訓を考えます。

 京都駅で事故があったのは1934年1月8日の夜のことでした。時間はソウル・梨泰院の事故発生に近い午後10時10分ごろとされています。

 当時の新聞や京都府警の歴史をまとめた「京都府警察史」を見てみます。広島県呉市にあった呉海兵団や富山、金沢、福井、敦賀の各市にあった陸軍連隊に入隊する若者が出発する当夜の事故でした。駅には若者をはじめ見送りの家族、青年団員が京都駅に詰めかけていたといいます。

 その人数は「京都府警察史」は数千人、事故翌朝の「京都日日新聞」は7000人余りとしています。ホームだけでなく、線路をまたぐ陸橋に特に多くの人がいたようです。

 入隊者を乗せた臨時列車の発車時刻が近づきました。詰めかけた人々は、陸橋からホームへ見送りに行こうとし、群衆は動きだしたようです。「京都府警察史」は事故発生時の瞬間をこう記しています。

 「その時ひとりの子供が足を宙に浮かせて転倒した。助けおこそうとするその周辺に空間が出来た。その空間へ人波が押し合い群衆に連鎖反応を起し階段付近で一挙に十数人が将棋倒しになった」

 「京都府警察史」の生々しい記述は続きます。

 「人のかたまりが階段をなだれを打って転落し、最下段付近の二百数十人が下敷きとなって空前の大惨事となった」

 当時の新聞を見てみると大惨事の様子がよく分かります。

 「悲壮!“死”の大雪崩」「運搬途上で絶命続出」「その瞬間悲痛な叫び思わずぞっとする」などの見出しが記載されています。

 負傷者は京都衛戍(えいじゅ)病院(現国立病院機構京都医療センター)や京都府立病院(現京都府立医科大学付属病院)などに搬送されましたが、結果的に死者77人、重傷者74人となりました。

 犠牲者の中には10代の新進気鋭の映画女優・原静枝(1915~1934)が含まれていました。原は婚約者の映画監督・上野信二郎の弟、善三郎さんの見送りに出掛け事故に遭遇しました。上野家では6人もの家族が亡くなり、家族の一人は当時の新聞に「ただぼうーとして夢のような気持ちです。現実か夢か、これが夢であればと、胸の中一杯です」と語っています。

 1980年に発行された「京都府警察史」は事故の教訓について、雑踏警備には事前の実地調査と関係機関との綿密な打ち合わせと連絡をした上で、警備計画を立案する必要があるとしています。

 その後も重い一文が続きます。「いつ不測の事態が発生するかもしれないのが群集心理であり、そこに雑踏警備のむつかしさがある」。

 京都駅、明石市、ソウル・梨泰院と繰り返される雑踏事故。対策は難しいかもしれませんが、過去にあった事例から学ぶことはできそうです。

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