「宗教とは」をテーマに考えてみたい。
といっても、その教義や哲学についてではなく、主に日本人と宗教との関係性についてだ。日本人は実に60%超のひとが無宗教だと答え、70%近くのひとが信仰心を持たないとする調査結果が存在するそうだが、これはなにを意味しているのだろうか。
宗教には「自然宗教」と「創唱宗教」とがあるという。無宗教だというひとたちはこの「自然宗教」について自分の信仰だとは捉えていない。あくまで(創唱宗教に対して)無宗教だと主張するのだ。
では、自然宗教とはどのようなものか。(自然崇拝とイコールではない。)日本ではその昔、村落が主たるコミュニティであった。村人が亡くなった時は村で弔い、法要を行い、一定の期間(33年間が通常か)を過ぎるとご先祖様に同化されていくものとされていた。
お盆やお彼岸の行事等、地域によって様々な民俗文化が残っているがこれも自然宗教の儀式だと捉えられる。それによって常日頃の生活(宗教活動を含む)には事足りているので、別に「創唱宗教」を信仰する必要はなく、このことをもって自分は「無宗教」だと自任されているようだ。
現在もいわゆる「葬式仏教」として檀家制度も残っているが、檀家であってもそれは父母など尊属の追善供養のためだけであって、「自分は無宗教である」と標榜している人が多いのではないか。「歎異抄」(第五条)のなかで親鸞聖人は「父母の追善供養のために一度でも念仏を申したことは無い」とされるが、このことは象徴的である。葬式仏教と創唱宗教は区別されているわけだ。
「宗教は恐ろしい」ともされる。人の弱みに付け込んで有り金、財産を全て巻き上げられるとか、教団の閉鎖的な世界に連れていかれ自由を奪われてしまうとか、そのような被害を聞くにつけ、「創唱宗教」に対しての防衛本能が過剰なまでに働き、なおさら「無宗教」を標榜し信仰心を持たないことになる。
しかしながら、本来は、人間が生きていく上で必要なものとして宗教は存在してきたはずだ。グリーフケア(悲嘆の苦しみを和らげる)やビハーラ(緩和ケア)に取り組んでいる宗教もある。自身を無宗教と決めつけてしまうというのも選択肢が狭められ、少し淋しい人生ではないだろうか。
また上記のような恐ろしい教団は別としても、創唱宗教の運営主体たる宗教法人が継続的に運営していくには経済的な安定が必要なことは理解できる。国は宗教法人が行う事業を収益事業と非収益事業に区分し、非収益事業には法人税を課していない。布施などの浄財はもちろんのこと、たとえば寺社の広々とした境内を貸し駐車場にしているケースをよく見受けるが、初めの1時間などは駐車料金ではなく祈祷料として受け取ることにして非課税にしている。
駐車場を祈祷しながら歩いている職員を見かけるのはそのためだ。また地方公共団体は宗教法人の所有する不動産に係る固定資産税を一等地であっても課税していない。さらには収益事業の所得に対する税率も軽減されており、それだけ税制上の優遇措置を設けているのだ。それでも運営の厳しい宗教法人も多く存在するという。
一方で先ごろ法隆寺はクラファンでの資金調達1億円を突破したと聞く。宗教法人の存在意義、その管理運営も含め、未来に向けて本気で検討していただかなければならない時期が来ている。
参考書籍:「日本人はなぜ無宗教なのか」著者:阿満利麿(ちくま新書)