なぜウクライナでは「ロシア語」が広く普及しているの? ソ連時代の言語政策が背景に

新田 浩之 新田 浩之

3月31日、日本政府はウクライナの首都「キエフ」などの呼称をウクライナ語の「キーウ」に改めることを発表しました。「キエフ」はロシア語に基づいており、現在の情勢ではそぐわないという判断からです。それでは、なぜウクライナではロシア語が広く普及しているのでしょうか。

ウクライナ語とロシア語の複雑な兄弟関係

ウクライナ語とロシア語は同じスラヴ系東スラヴ語群に属し、「兄弟的言語」と表現できる間柄です。基本文法や基本語彙は両言語で一致しますが、抽象度の高い単語になると差異が大きくなるとされています。

さてウクライナでは現在でもロシア語が広く使われています。要因としてはいろいろありますが、一つにはソビエト連邦時代の言語政策が挙げられます。

ソビエト連邦時代、ウクライナは「ウクライナソビエト社会主義共和国」としてソビエト連邦を構成する一共和国でした。形式上は独自の国旗、国歌、政府があり、ソビエト連邦と白ロシアソビエト社会主義共和国と並んで国連の議席もありました。しかし、私たちがイメージする「主権国家」には程遠く、事実上クレムリンの支配下にありました。

ソビエト連邦の言語政策は時の指導者によって変わりました。最もウクライナ語にとって困難な時代は1920年半ばから1950年代前半までのスターリン時代です。この時はウクライナ語の使用が厳しく制限され、学校でのロシア語教育は義務化されました。

 「自由選択制」とはいえロシア語化が進む結果に

スターリンの死後、フルシチョフの時代になるとウクライナ語の使用も緩和。1958(昭和33)年~1959(昭和34)年に行った教育改革では親が子どもの教育言語を選べる「自由選択制」を採用しました。つまり民族語で教える学校、またはロシア語で教える学校に通わせるかに関して、親が選択できるようになったのです。

「自由選択」と聞くとウクライナ語教育が発展しそうな気がしますが、最終的にはロシア語がより広まる結果に終わりました。

スターリン死去後、ソビエト連邦はロシア人やウクライナ人といった旧来の民族を超えた新しい人間像「ソビエト国民」づくりに注力。

1971(昭和46)年に開催したソ連共産党第24回党大会に対する党中央委員会の活動報告において、ブレジネフ書記長は「社会主義建設をつうじてわが国には人々の新しい歴史的共同体―ソビエト国民が生まれました」と述べました。

ロシア語は多民族で構成する「ソビエト国民」の共通言語に位置付けられました。すでに第二次世界大戦以降から、ロシア語はソビエト社会のあらゆる場面で見られ、高度な職業に就くにはロシア語の知識が必須に。高等教育でもロシア語が優先的地位を占めました。つまり豊かな生活を送るためには民族語に加えロシア語の知識が求められたのです。

余談ですが、ラトビアの首都リーガにある鉄道博物館を訪れた際、ソビエト連邦時代に使用していた機械類にラトビア語はなく、すべてロシア語で表記されていました。

このような社会背景ですと、親は子どもの将来を考えてロシア語を学ばせたいという気持ちになるのは自然の流れでしょう。

事実、ソ連政府の後押しもあり、ウクライナではロシア語で教える学校が増加する一方、民族語で教える学校は大きく減少。特に都市部ではロシア語使用の学校が多かったのです。

ソビエト連邦の言語政策に対する反発は存在しましたが、大きな政策転換の実現には至りませんでした。

ウクライナ語がウクライナ社会で日の目を見たのは1991(平成3)年の独立以降です。今後、ウクライナ語はウクライナ社会でどのような変遷をたどるのでしょうか。また他の旧ソ連諸国におけるロシア語の地位はどうなるのでしょうか。考えれば考えるほど興味は尽きません。

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【参考文献】
▽エレーヌ・カレール=ダンコース著『崩壊した帝国―ソ連における諸民族の反乱』新評論、1981年
▽服部倫卓・原田義也編著『ウクライナを知るための65章』明石書店、2018年 
▽在日ソ連大使館発行「今日のソ連邦」1975年3月号

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