いじめの問題が深刻化している。「夜回り先生」こと教育家の水谷修氏は「いじめは、なぜなくならないのか」というテーマを掲げ、もはや「いじめ」を超えた人権侵害や犯罪に相当する行為を区別して、教育現場だけでなく、警察など他機関との連携の中で対処すべきと訴えた。
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日本中で、いじめによって多くの子どもたちが、自ら命を絶っています。文部科学省や教育委員会、学校が、この問題に必死に取り組んでいますが、一向に解決の兆しは見えません。それは、なぜなのでしょうか。
私は、学校におけるいじめについて、「学校において、意図的に、ある児童・生徒に対して、精神的苦痛を与えること」と定義しています。具体的には、無視や悪口、陰口などです。これらの行為には、倫理的・道徳的な問題は、存在しますが、ほとんどの場合、法的な問題は、存在しません。法律は、人を嫌うことを禁止していませんし、人の悪口を言うことも、よほどその人の名誉に関わるような嘘を言うことでなければ、禁じていません。この種のいじめは、確かにどんな学校にも存在します。しかし、これは、学校だけではなく、一般社会の中でも、普通に存在しています。しかし、この種のいじめは、私は、いじめという何か陰湿なことばで呼ぶより、不健全な人間関係と呼ぶべきものだと考えています。
これらの行為こそ、本来学校がその教育の中で予防し、対処しなくてはならないものです。倫理的・道徳的問題なのですから。実は、これを、学校で私たち教員が解決することは、そんなに難しいことではありません。両方の生徒からきちんと話を聞き、加害生徒に、相手に対してした行為が、いかに相手を傷つけたかを知らせ、そして、謝罪をさせます。被害生徒が、それを受け入れ和解してくれる場合は、それでことはすみます。もし、被害生徒が、謝罪を受け入れることができない場合は、クラス変更などで、所属する集団を替えてあげます。私は、教員時代、何度もこのようなケースを扱いました。
しかし、現在日本中でいじめとして認識されているものは、私が、学校におけるいじめとしたものとは、まったく異なるものです。
今、多くの日本人に、学校のいじめとは、どんなことですかと聞けば、「暴力をふるい相手に怪我をさせる」、「金品を脅して奪う」、「自死の練習を強要する」、「ネットに死ねと書き込む」…。このような内容の返事が返ってくるでしょう。
でも、これは、いじめではありません。深刻な人権侵害であり、また、刑事・民事の事件、つまり犯罪です。学校が、その日々の教育によって、対応できるものではありません。学校という教育現場で発生して行為であっても、法務省や警察庁、つまり各地の人権擁護局や、警察にその対処をゆだねなくてはならない問題なのです。一般社会でこのようなことが起きれば、それはすぐに犯罪と見なされ、関係各機関が、すみやかに動き、対処します。しかし、学校の場合は、いじめとみなし、かたくなに関係機関の介入を拒み、そして自分たちの中で、教育現場の中で、対処、解決しようとする。こんなことが、許されるのでしょうか。
実は、これが、今まで学校におけるいじめの問題を、解決できず、学校からいじめをなくすことができなかった一番の理由だと、私は考えています。
文部科学省、教育委員会、学校などの教育機関は、すみやかにいじめの定義を見直し、本来学校が扱うべき、倫理的・道徳的問題であるいじめと、法を犯す行為として人権侵害や犯罪に当たるものをきちんと区別して、その閉鎖性を捨て、他機関との連携の中で、この問題に対処するべきです。一刻も早く。