いじめは人権侵害で犯罪…「いじめ防止対策推進法の改正」を前に再考を

夜回り先生・水谷修/少数異見

水谷 修 水谷 修
水谷修氏
水谷修氏

 「死」への想像力の欠如なのか。「死ね」という言葉が簡単に発せられるようになった社会にあって、生きづらさを感じる人も少なくない。「死にたい」と訴える子どもたちと接してきた教育家の水谷修氏は23日、当サイトの取材に対し、文科省をはじめとした〝大人〟たちが「いじめ」と捉えている行為は「人権侵害」に他ならないと説いた。それが根絶できない一番の理由とは何か?一部でサイトを閉鎖するなどとの報道もあったが、新学期を控えた今、水谷氏が健筆をふるった。

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 現在、超党派の国会議員が、いじめを放置、助長した教職員を懲戒処分する規定を「いじめ防止法」に盛り込もうとしています。私は、いじめを無くすためには、このことより先に論じられなければならないことがあると考えています。それは、現在の文科省のいじめの定義です。

 学校において、ある児童・生徒が、他の児童・生徒に対して、暴力をふるう。金品を要求する。「死ね」や「学校に来るな」と脅す。文科省は、これをいじめとしています。しかし、これらは、立派な人権侵害にあたります。実は、いじめという行為が、他者の幸福権を奪う重大な人権侵害であるということをきちんと捉えている人がいません。法務省は、その人権侵害の規定の中に、虐待などとともに、いじめをきちんと入れています。しかし、この国の多くの教育専門家や学校関係者は、特に文科省は、それをきちんと理解していません。

 また、別の側面から見てみましょう。どうですか、これを、私が、今、町に出て、だれかに対してやったらどうなるのでしょう。明らかです。警察に逮捕され、そして犯罪者として裁かれることとなります。でも、学校内でならば、一定の人間関係のある中でならば、犯罪にはならず、いじめになるのでしょうか。これらのことは、いじめではなく、犯罪です。

 文科省は、実は、学校内における人権侵害や犯罪をいじめとして扱い、それを学校内の問題として、教育の中で解決させようとしている。私は、ここにいじめが根絶できない一番の理由があると考えています。

 私は、先に、学校におけるいじめについて、「学校において、意図的に、ある児童・生徒に対して、精神的苦痛を与えること」と定義しています。具体的には、無視や悪口、陰口などです。これらの行為には、倫理的・道徳的な問題は、存在しますが、ほとんどの場合、法的な問題は、存在しません。法律は、人を嫌うことを禁止していませんし、人の悪口を言うことも、よほどその人の名誉に関わるような嘘を言うことでなければ、禁じていません。この種のいじめは、確かにどんな学校にも存在します。しかし、これは、学校だけではなく、一般社会の中でも、普通に存在しています。しかし、この種のいじめは、私は、いじめという何か陰湿なことばで呼ぶより、不健全な人間関係と呼ぶべきものだと考えています。

 これらの行為こそ、本来学校がその教育の中で予防し、対処しなくてはならないものです。倫理的・道徳的問題なのですから。

 私は、この定義以外の、文科省がいじめとして扱っている事案について、学校現場で抱え込まさず、警察、家庭裁判所や法務省の人権擁護局の手を借りる。こうすれば、多くのいじめは消滅できると考えています。文科省と国会議員の方々には、ぜひご一考していただきたい。

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